キミコ

この先どのくらい生きられるか分からないと自覚。今のうちに言いたいこと書きたいことを形にします。

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最近の記事

近藤誠医師 がん放置説⑨

パワーに惹かれた  かつて私は近藤誠さんに心酔していました。『患者よ、がんと闘うな』をはじめて読んだ時、気迫のようなものを感じました。文章全体に満ちている決意を感じたのです。  医学界をむこうにまわして闘おうとする彼のパワーが、行間からあふれて届いてきました。自立した精神、自分の足で立っている人の、潔い美しさもあり、この一作で完全に彼のファンになりました。  近藤さんはこの本がベストセラーになったせいで、病院内で他の医者と出会っても、そっぽを向かれるようになったそうです。挨拶

    • 近藤誠医師 がん放置説⑧

      著名人の援護射撃  ベストセラーになった山崎章郎さんの『病院で死ぬということ』が出版されたのは1990年です。この本を読んで、私はつくづく病院で死にたくないと思いました。病院で死ぬことをさけるためにも、なるべく病院には近づきたくないと思ったものです。  病院で亡くなる人たちの、あまりに悲惨すぎる事例が、いくつも紹介されていたからでした。この本を読んだ人たちは、病院でこんなに非人間的な最期を迎えたいとは思わないはず。病院のひどさを指摘してくれた山崎医師には好感と信頼感をもちまし

      • 近藤誠医師 がん放置説⑦

        放置説を信じる時代背景  『患者よ、がんと闘うな』を文芸春秋の連載記事で読んだのは、まだパソコンが普及する前のワープロ全盛の時代。がん情報はほとんどなく、がんは死病と思われていました。患者さんにがんを告知するかどうかが議論されていた時代です。  日本でがんの告知にかんする初の最高裁判決が出たのは1995年。近藤さんの『患者よ、がんと闘うな』が発表された年でした。最高裁はがんの告知は「医師の裁量の範囲内」としています。  2002年になってようやく最高裁は「医師は患者家族への告

        • 近藤誠医師 がん放置説⑥

          放置説は死を前提としている  通常の医療が死を敵とみなし、死なせないための手立てを可能な限り講じようとするのにたいし、近藤さんの放置説は死を前提にしています。  死と敵対せず、死を受け入れることからはじまります。そこが他のトンデモ医療や健康本と呼ばれるものとの違いです。潔さを感じて私が引きつけられた点でもあります。  人間は必ず死ぬ。すべての人がひとりの例外もなく、必ず死ぬ。死ぬまでの時間をどうすごすか。実は落とし穴があるのですが、放置説はそこを起点として、がん治療の問題を考

          近藤誠医師 がん放置説⑤

          放置するのは楽だから  近藤さんの唱える放置療法を選択すれば、何もしないわけだから、病院に通わず、治療を受けず、健康なときと同じ日々をすごすことができます。  時間をとられない。お金もかからない。体調を崩すこともなく、不調も感じない。普通の暮らしが普通にできて痛くもかゆくもなんともない。  患者にとって肉体的にも経済的にも負担が皆無のこの方法は、なんと魅力的なことでしょう。仕事の点でも、暮らしの点でも、都合がいいことこの上ない。こんなに楽なことはありません。  『患者よ、がん

          近藤誠医師 がん放置説⑤

          近藤誠医師 がん放置説④

          近藤説を信じる原因のひとつは無知  自分ががんになるまで、私は「がんは死に至る病」だと思いこんでいました。誰かががんになったと聞くと、遅かれ早かれその人はがんで死ぬのだろうと思ったものです。  がんには様々な種類があると知ったのも、必ずしも死病ではないと知ったのも、自分ががんになってからでした。  がんと無縁に生活している一般の人は、私もふくめて、ひどく無知だと思います。私は「初発のがん」と「再発がん」の違いも知りませんでした。がんは大病であるというひとくくりの深刻なイメージ

          近藤誠医師 がん放置説④

          近藤誠医師 がん放置説③

          近藤誠説を信じた経緯  私が近藤誠医師を知ったのはベストセラーになった『患者よ、がんと闘うな』によってです。単行本になる前。文芸春秋誌の連載で読みました。  今あらためて読んでみると、漢字が多くて難解な印象を受けます。当時はまだパソコンも普及していなかった時代。漢字の多い硬い文章もさして気にならず、ひきこまれて強く共感しながら読みました。そして自分もがんになっても治療はしないでおこうと自動的に決意したのでした。深く考えることも疑うこともしませんでした。  その後、近藤さんの著

          近藤誠医師 がん放置説③

          近藤誠医師 がん放置説②

          トンデモ医療  トンデモ医療と呼ばれるものがあります。奇妙で耳慣れない名称ですが、とんでもない医療を略してトンデモ医療なのだろうと推測します。  トンデモ医療には2種類あると思います。ひとつは金儲けが目的のどこからどう見ても詐欺としか言いようのない医療。  もうひとつのトンデモ医療が近藤誠医師に代表されるジャンルです。近藤医師以外にどんな人がいて、どんな説を唱えているのかは今回は触れませんが、新型コロナワクチン反対説や子宮頸がん(HPV)ワクチンの反対論者もトンデモ医療に含

          近藤誠医師 がん放置説②

          近藤誠医師 がん放置説①

          改めて放置説  出版不況が喧伝される昨今。それでも、近藤誠氏の著作は次々と出版されています。最近は新型コロナやワクチンについての本も出しているようですが、がんに関しても語り続けており、昨年11月に『もうがんでは死なない』が、今年の7月には『がんの逆襲』が発刊されています。  近藤さんの本は出せば売れる例外的な人気本なのでしょう。私はさすがに購入する気もないし、読む気もありませんが、これだけ出版され続けているところを見ると、近藤医師の本を読んでがん放置説を信じる人は多いだろうと

          近藤誠医師 がん放置説①

          いのちを支える

           施設入居で母は一変しました。他人の目の存在が完全にプラスに働いて母を活性化させたのです。見た目も心の状態も、すっかり以前の母にもどりました。他人の目がこんなにも老人を活性化する。いのちを支える。私の想像をはるかに超える力を発揮したのでした。  入居の初日だけ、母は拒否の態度をとりましたが、翌日からは問題なく適応。家にいた時は今にも死にそうで、自分ひとりでは何もできない老人だったのに、施設では自分のことは自分でできる元気な老人になってしまったのです。劇的というか、一挙に変身。

          いのちを支える

          心が見えなくなる

           心は自分だけの最も内密なもの。他人には覗かれたくない。心だけは絶対に覗かれたくない。そう思っていましたが、隠しているようでいて、実は隠しきれずに見えてしまうものなんですね。  友人知人の誰彼と会った時、その人がどういう心の状態なのか、機嫌がいいのか悪いのか、即座に判断できてしまいます。初対面でもその人が自分とあうかあわないか、最初の一目でわかってしまう。見えないはずの心が、見えてしまうんだと思います。  見えてしまう心が、外から見えなくなるときがある。尋常ではない危機的状態

          心が見えなくなる

          心が巣ごもり

           母は洗濯好き、お風呂好きの人でした。どんなに疲れても、多少の熱があっても、お風呂に入らずに寝ることなんてありえなかった。洗濯も大好きで、常に洗うものはないかと目を光らせ、着ている物を脱がされて洗われたこともあります。  その母がいつのまにか変わったのです。家にいた最後の頃は、連日、同じセーターと同じズボン。着替えをしないだけではない。しばしばパジャマのズボンの上に普通のズボンをはいていました。  暖かいからそうしているという説明。やめさせようとしても「ええんや、これでええ」

          心が巣ごもり

          プラスの変化

           施設での最初の一夜があけました。目を開けていたこともあったけれど、眠っている時もあり、まずまず眠れたようでした。  朝、私がいつもしていたようにスタッフさんが熱々の蒸しタオルを作って持って行ったら「そんなことせんでも顔くらい自分で洗えるのに」そう言ってちゃんと洗面所に行き、ちゃんと自分で洗顔したらしい。他人にはちゃんとしたところを見せたかったのでしょうか。  それを聞いて、私はほんとうに驚きました。信じられませんでした。母が自分で顔を洗いに行くなど、想像もできなかったからで

          プラスの変化

          拒否する気持ち

           話が前後します。母が施設に入居した初日をどう過ごしたか。ケアマネさんからも施設からも報告の電話がありました。私たちは子供を保育園なり幼稚園なりに送り込んだ保護者みたいな状態。  施設側としては母を落ち着かせてなんとか入居者を獲得したい。送り出した私の側と利害が一致して、自然な協力体制がうまれ、頻繁に報告が届いたのだと思います。  初日はお昼ご飯を食べないで拒否。食べる時間じゃないから食べませんと母が言ったらしい。断固として言い切る母の様子が見えるようでした。心を閉じたときの

          拒否する気持ち

          プライバシー問題

           年を取って、日々の生活を他人に依存しなければならなくなった時、我々のプライバシーはどうなるのか。どこまで守られるのか。自立できない人間のプライバシーなど無視されて当然なのか。  施設の人と電話で話していて、気になることがありました。  最もプライベートな個人の領域に属するものは「排泄行為」と「心」だと思っています。でも排泄に関しては病気で入院して医療行為をうけるとき、問題なく無視されますし、我々もそれを当然のこととして受け入れます。入院病棟のトイレはカーテンだけでドアがない

          プライバシー問題

          感情が動かない

           入居の翌日、母がどんなか気になるので、様子を見がてら会いに行こうと施設に電話をいれました。何時ごろに行くのがよいのか、施設側の都合のいい時間帯を聞くつもりでしたが、予想外の返事。慣れるまでは来ない方がいいというのです。  「帰ると言われた時にお母さんに勝てますか?」 言われるまでもありません。もちろん勝てません。母は自分の意志で行動する人。その母が帰ると言ったら逆らうのはほぼ無理。絶対に無理。まちがいなく私は負けます。母の意志には逆らえず、どんなに渋々であっても受け入れざる

          感情が動かない