多種族の同い年に会いに行ったら元気が出た話
久しぶりに実家に帰ったら、知らない犬がいた。
コロナ禍で帰省を控えている間に飼い始めていたらしいのだが、久しぶりの実家を満喫する僕を完全に泥棒だと警戒するくらいにはもうすっかり家族の一員となっているようだった。
30分ほど遊んでやるとすっかり信頼したのかお尻をくっつけてくるチョロいうちの犬だが、すでに3歳を迎えている成犬だ。
犬でいう3歳は人間だと大体28歳くらいらしい(諸説あり)。現在28歳の僕とほとんど同い年ということになる。
「ふわふわでかわいい上にまだまだ元気いっぱいの犬」と「久しぶりの帰省に疲れ果ててソファから一歩も受けない僕」が同い年なんて信じられない。
もしかして他の生き物でいうと28歳ってみんなこんなにイキイキとしていて、さらに可愛かったりするのだろうか。
それは同い年として情けないやら悔しいやら、複雑な心境になる。
すでに肉体にガタがきつつある僕と比較して、世の中の生き物たちはどのように生きているのだろうか。
この機会に「人間でいうと28歳くらい」の動物たちを集めて、どの生き物が1番元気なのかを確かめてみよう。
猫派にもお伺いを立てる
同い年の犬の次は同い年の猫にも会ってみたい。
調べてみると、猫も犬と同様に大体生後3年くらいが人間でいう20代後半に値するらしい。
3歳の猫を探してみたが、知り合いには丁度その時期の猫飼いがいなかったので、渋谷にある猫カフェMOCHIを訪れた。
東京には様々猫カフェが存在しているが、ここは比較的若い猫が多くおり、事前のHPで確認したところ同い年に該当するの猫もいるようだった。
実は猫カフェというものにあまり訪れたことがなかったので、システムや雰囲気がわからず不安だったのだが、入ってすぐに転がっている猫に遭遇してそんな気分は晴れてしまう。
店舗は清潔で獣臭もなく、システムはほぼ無人で成り立っているため猫とのコミュニケーションに集中できる。
ドリンクバーやコミック類、ネット回線や充電器なども充実しているので、カフェとしての質も高いことにも驚いた。
何よりたっくさんの猫がいる。ふりむけば猫。
店内を見回すと猫たちの紹介コーナーがあり、そこに猫たちの生年月日が書かれていた。
この店での同い年は、この子たちのようである。
見分けがしやすいるりちゃんに狙いを定めて探したものの、店内に全く姿が見当たらない。
今日はお休みなのだろうか、店員さんに聞いてみようかと思った時、窓際に一匹渋谷を見下ろすキザな子がいることに気がつく。
彼女である。
まだ生まれて3年にも関わらず、なんだこの達観した後ろ姿は。
カフェの店内では、たくさんの猫たちが人間に餌をもらったりおもちゃで遊んでいるのに、誰とも群れず、人間の手が及ばない隅っこで一匹渋谷を見下ろすその姿にとても胸を打たれた。
これが猫界での同い年……。入口から猫たちの可愛さにノックアウトされている自分の軸の柔さに情けなくなった。
この後ろ姿を見習って生きていきたいと思わされる。
動物園と肩に鳥のフン
犬、猫とピンポイントに攻めていったので、今度は広くいろんな動物に会おうと上野動物園を訪れた。
たくさんの動物がいるここならきっと同い年にも会うこともできるだろう。
GW中の入園でそれなりに人がおり混雑していたが、事前販売の障壁を乗り越えて園内に入ることができた。
入ってすぐにかわいいカワウソを愛でたり、
初夏の陽気を満喫しているレッサーパンダに癒されてしまい、本来の目的を忘れかけた。
そして入園後30分ほどで経過した頃にやっと、動物たちの生年月日があまり公表されていないことに気がついた。
どうしようかなと動物園をとぼとぼ歩いていたら、肩に鳥のフンが落ちてきた。
東京ドーム約3個分の広さの上野動物園において、猫の額ほどの大きさしかない僕の肩にわざわざ落ちてきた鳥のフン。
ひどく動揺をしたのち、なんだか慰められているような気持ちになった。
気を取り直して同い年の動物を探すことにする。
するといくつか名前と生年月日が掲示されている動物をやっと見つけることができた。入園して1時間10分が経過してからのことだった。
鳥のフンのおかげで諦めずに済んだ非常に稀な例である。
掲示があった動物の1つがこのシロクマ舎。
どちらも2008年生まれの2匹はおそらく餌が出てくるであろう穴の前でずっとウロウロしており、それを人間が鑑賞しているという違和感があるスペースだった。
飼育下だと30年ほど生きるシロクマの中で2008年生まれということは、ざっと人間年齢で計算すると35〜40代前半になる。
僕からすると先輩上司に当たる結構な歳上だ。
続いて上野動物園ではお馴染みパンダ。この日会えたシンシンは現在17歳。人間にするとこちらも40代〜50代らしい。
少し並んで入れたパンダ舎は立ち止まることが許されておらず、ジリジリと進みながら鑑賞をお願いされている。
人間で言うと中年に当たるシンシンは鑑賞スペースでもずっと背中を向けており、そのある種無骨な姿に「背中を見て学べ・感じろ」という粋さを感じてしまうのは、年齢を知ることで脳内で勝手に擬人化しているからだろうか。
これは今回の観察と少し離れてしまうのだが、最後にゴリラ舎に寄ったら、自分と全く同時期に生まれたゴリラがいた。
なんだこのハリウッドスターのようなものすごいかっこいいお顔は。
その凛々しいお顔をぜひ拝見したいと鑑賞スペースに行ったら、全員お休み中だった。
華の93年生まれに会うことは叶わなかったが、休みが必要なお年であることは推察できたのでそっと思いを馳せることにする。
かなり満喫はしたものの、上野動物園では残念ながら、(人間年齢で)僕と同い年の動物は見つけることができなかった。
しかし今回動物たちの年齢に注目したことで、動物園で前線を張っているのは人間で言うと中高年の年齢層が多いのだということを知った。
今後動物園を訪れた際に目当ての動物が寝ていて残念、なんていう経験を今後しても「人間年齢を考えたらそりゃそうなるか」となってしまうほど、特殊な共感の切り口を得ることとなった。
植物の果てしなさを知る
最後に訪れたのは、東京都文京区にある小石川植物園。
正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園」といい、その名の通り東京大学に附属する施設である。
一般開放もされており、わずか500円の入場料を払うだけで古今東西さまざまな樹木の観察しながら、生い茂っている緑を満喫することができる、文字通り都会のオアシスだ。
樹木に関する年齢といえば、樹齢という指標がある。
ここでは樹齢を基準に人間年齢へ換算をしてみようと考えていたのが、園内の木々には樹齢や生育年の情報がない。
流石に見た目で判断するほどの才覚はないので、素直に園の方に質問をしてみた。すると予想だにしない返答が返ってくる。
「樹木には動物のような寿命の概念はありません」
え、寿命がない?生き物なのにそんなことあり得るのだろうか。たくさんのはてなを抱えていると、園の方が丁寧に教えてくれた。
「樹木は主に、境や病害虫の侵入など外的な要因で枯れます。ソメイヨシノは、街路樹などの環境では踏圧などのストレスで60年程度しか生きませんが当園だと100年以上は生きます。」
「樹木は、このような環境ではこれぐらい生きるという寿命の期待値しかありません。なので樹齢〇〇年の木という特定の仕方は難しく、実際に〇〇年経ってみないとわからないのです。」
ここまで他の動物たちの場合は、その生き物の寿命と人間の平均寿命を基準に、大体の同い年を推察していたのだが、寿命が測れないのならば当然特定はできない。
環境によって大きく左右される樹木の生きていく大変さを知るとともに、環境さえ適合すれば果てしない時間を生きていける樹木の持つ可能性の未知さに慄いてしまう。
衝撃と共に、僕を囲んでいる木々を見上げてみる。
彼らはいつまでもここにあるかも知れないし、ある時急に病になるかも知れない。
それは人間でも同じことがいえるが、樹木たちはその環境を修正することもできなければ選択もできない。
その過酷とも言える状況にも関わらず、目の前の木々は太くしっかりとその場に根を生やしている。その姿が一層逞しく感じる体験だった。
みんな違ってみんないい
残念なことに、当初の目的である「多種族の同年代に会いにいく」は犬と猫しか叶わなかった。
しかし色々な生き物たちをみて、自分らしさの表し方を知れたような気がする。
ある時は存分に甘えたり、背中しか見せなかったり、どっしりと構えたり。
まさに置かれた場所で咲いている彼らの生活と命を知ることで、僕も勇気づけられた。
最後に今回知り合った方々を一画面に集合させて、オンライン同窓会チックなことをやってみた。
こうやって一画面に揃えてしまうとなんともこじんまりしているが、全てが地球という環境の中でたまたま生きていると想うと考え深い。
種族の垣根を超えて、年齢という尺度で測らなくても、みんな違ってみんないい。
それを体験するための行動だったのだと思えた。