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一文を大事に
昨日の夜、NHKでクラシック音楽館という番組を見ていた。
最初からしばらくはNHK交響楽団の定期公演の様子が延々流れていた。
クラシックのことはよくわからないけれど、他のチャンネルで放送している騒がしい番組に比べたらずっと心地良くて、つけっぱなしにしていた。
最後の20分くらいだったろうか、植松透さんと久保昌一さんという、2人のティンパニ奏者の特集になった。
今度、ティンパニのための曲を演奏するらしく、2人の練習風景と音楽への向き合い方、普段の様子が流れていた。
(ティンパニっていうのは打楽器の1種で、確か打楽器の中で唯一音階のある楽器だ)
お2人の内どちらだったかは失念してしまったけれど(失礼)、作曲家が書いた原本を写した楽譜を見ながら話している様子に、じんときた。
ベートーヴェンやモーツァルトの書いた楽譜を眺めながら、「ベートーヴェンは何度も書き直してる。考えながら曲を作ったんだと思う」とか、「モーツァルトはきれいに書いてるから、きっと頭の中で曲が全部できていて、それを書き写してただけだったんだろうな」とか、楽譜から音以上のものを読み取ろうとしていた。
なんかその様子が、すごく神々しくて。
楽譜を通して作曲家と対話してる感じが、羨ましかった。
それがやけに響いた理由には心当たりがある。
いきなり話が飛ぶのだけれど、最近読んでいる漫画で、「音の成り立ちを考える」という話が出てくる。
その音がどうしてそこにあるのか、どんな意味をもつのか、何のために必要なのかを考えて演奏すると、深みが出るという内容だ。
昨日の、植松さんか久保さんか忘れたけど(ほんとにすいません)、楽譜を見ながら考えている様子が、正に「音の成り立ちを考えている」ところだったんじゃないかなと思う。
楽譜に書かれた休符のタッチや修正した痕跡から、一生懸命に、作曲家の意図を汲み取ろうとしていた。
私がその様子を見ていて何を思い出したかって言うと、修論のことだった。
ああ、いいな、私、私も、こんな風に書きたい。
この節が、この項が、このパラグラフが、この一文が、何のためにあって、論文全体の中でどんな役割を果たしているのか、本当は全部考え抜いて書きたい。
でもきっとそれは、「とりあえず全部書く」という最低限のレベルを達成してから考えることで。
ひとまず書き抜くことすら終わっていない私には贅沢な話なのだ。
やりたいことをやりたいようにやるには、技術と経験が必要だ。
そして私は多分、そこまで到達できないままに修論を終えるだろう。
この先も研究の世界に残るならそこまでこだわることもできたかもしれないが、とりあえず今回は難しいかもしれない。
それでも、そういう心意気をもつ分にはいいよねと、画面に映るその人を見ながら思ったのだった。
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