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#52 成長オバケへの憧れと反発

スラムダンクなら沢北栄治、封神演義なら申公豹、ちはやふるの綾瀬千早、ハイキュー!のウシワカ。

怠けない天才、努力するウサギ、好奇心と向上心の塊。
過去編は描かれないか、描かれても「ただ一筋にこの道に没頭してきた」エピソードが出てくるだけ。
圧倒的な結果にふさわしい地味な日常を積み上げているのに、「努力」という言葉が似合わない。本人が努力と感じていない。

そんなキャラクターが好きです。

自分もそんな風に没頭できることに人生の時間の多くを使いたいし、
彼ら彼女らが成長や向上を目指す姿を素直に格好いいと感じます。

一方で、

自己啓発本やビジネス書、ライフスタイルアドバイス的なコーナーが発している
「もっと成長せよ」
「今のままでは大変なことになる」
「あなたにはもっと可能性がある」
といったメッセージには、時々強烈な反発を覚えます。

危機感を煽って、自己変革を強要してくる感じはなんだかな、と。

その割には興味は強く、つい手にとってしまう。

きっかけが自分の「ポジティブな気持ち」なら進んで摂取したくて、
不安につけこまれている感じがすると嫌なんだろうなと思います。

じゃあ、本人が成長したい気分になった時だけ手を貸すスタンスがええやん、
と思うのですが、
子どもと関わる場面では、それだけでは話が片付かない。


「存在の肯定」と「成長を願う」心

子どもと接する場面でも、似たような葛藤というか、矛盾を感じることは多々あります。

その子のありのままでいい。生きているだけで価値がある。
「良い子」でいる、何かが「できる」、だから大切、という訳じゃないでしょう?

ダメなやつでも、上手くできなくても、その子らしさが見つけられると楽しいし、
自分の何かと通じる瞬間があるとお互い嬉しい。

私の基本姿勢がここにあることは間違いないのですが、

じゃあ、成長も発達もしなくていいの?

という声も自分の中から時折聞こえてきます。

特に、仕事として関わる上では、
ご家族や他の支援者など、その子を巡る様々な大人の思惑も考慮に入れる必要があります。

その子の「ありのまま」を認めることと、
「成長を願う」ことが矛盾してしまう時、
自分はどんなメッセージを伝える存在を目指すべきなのか。


自分なりの「答え」

あんまり難しく考えすぎずにね、あかんものはあかん。ダメなことは叱る。
多くの場合はそれで全然問題なしだと思います。

ただ、私が関わってきた、発達の遅れや自閉症特性のある子たちの場合、
「一般的な」そうしたスタンスでは色んなことがこじれて苦しみにつながってしまうケースを多く見てきました。

なので、「全肯定」の方を基本にしたら良いんじゃないかな、と思っています。

ありのままでいい。そのままでもいい。
ただ、自分以外の人や将来訪れる場面で、そのままだと辛い思いをすることがあるかもしれない。

だから、変化や成長を「提案」する。

その子のタイミングと「提案」がぴったりくれば採用されて変化に繋がるかもしれないし、
タイミングが合わなければ却下されてそのままかもしれない。その時は、違う「提案」をするだけ。

子どもは未熟な存在で、成長させてあげないといけないでしょ。
「ありのままでいい」なんて甘やかしたら、将来苦労するでしょ。

そうした、強引な介入を厭わないスタンスとは距離を置きたい。
その上で、「放課後デイ」とか「学童」とか、場所がちゃんと存続するように、社会的機能として求められる役割は果たしたい。

タイミングの見極めには発達機序や障がいの理解が必要だし、
「提案」の引き出しを増やすには経験が欠かせないので、

「肯定」と「成長」の両立って実は難しく、意識的に実践している場所を探すことも結構大変だったりするのですが、

そのためになら成長オバケを素直に目指せるかも、と思う人が1人でも増えて、
そんな考え方の場所が世の中に増えたらいいな、
と思っています。

ではでは。




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