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田山花袋『蒲団』を読んだ感想

 田山花袋による『蒲団』(1907)は、人生の倦怠感を直視し、尽きせぬ性欲を両手いっぱいに抱えながら社会的であることを要請される人間の煩悶を描き切った自然派主義を代表する私小説である。文壇における自然派とは、人間のもつ本来嫌悪されるところ、打ち明ければ途方もない糾弾を食らうようなところに人間の正体を見出し、それを包み隠さず暴くことで人間とはなにかという問題に迫ろうとする態度である。本作における「嫌悪されるところ」というのがすなわち性欲であり、その如何ともしがたさを描きながらもそれにも負けない強度をもって社会的理想像を提示することで、主人公の葛藤がひしひしと伝わるようになっているのが本作の醍醐味である。だから、よく「キモい」という感想を耳にするが、自然派においてキモいのは大前提ではなかろうか。この田山花袋という男、はなからキモい上等なのだ。

 34歳アラサー、未だ傑作を持たない中堅小説家、3人の子持ち、文学に疎く、子に付ききりの妻との結婚生活には飽き飽きしているが、子供をもうけただけに家族を養わねばという責任が重たい、そんな人生に対して疲弊した人物が主人公・竹中時雄である。彼の人生に、突如として若くて文学の才があって美しい、新時代の女性(妻との対比)として横山芳子が現れる。彼女は時雄の作品を崇拝しており、師弟関係を結ぶことになる。この師弟関係という設定がうまい、と思う。分かりやすい上下関係は「この若き才能のために」という大義名分を時雄に与え、性欲にまみれた様々な行動に正当性を与え、最上の隠れ蓑として機能するからだ。中年の暴走が何度もまかり通り、その一部始終を「本音と建前を知っているメタ読者」として鑑賞できる面白さはこの設定のおかげである。

 序盤では、性欲の色眼鏡をかけた時雄は芳子にもその気がありそうだと思ってしまうわけだが、芳子が同志社大学の男・田中秀夫と交際し、あまつさえ宿泊までしているという事実が発覚し、事態は一変する。時雄は芳子の恋の応援者になることを決め、芳子からもそのように認められるが、どうしても芳子を好きでいることをやめられない。芳子を自宅に住まわせ監視下におき、それだけに田中との交際の様子もありありと伝わってしまう矛盾。片想いの人であり、その保護者でもあるという矛盾。交際がばれることで破局してほしいが、芳子はそばに置きたいという矛盾。これらの表裏一体の矛盾が時雄を苦しめる。

 終盤、芳子と田中が嵯峨での宿泊で性的関係を持っていたことが明らかになり、芳子の父との四者面談の結果、田中が東京に残り、芳子が実家に帰ることになる。芳子と田中はそれを示し合わせて隠していたわけだが、その発端に横たわっているものも時雄と同じ性欲である。二人の性欲は暴かれ、大人に責められ、罰を受ける。時雄の性欲は隠し通され、批判されず、罰を受けない。罰を受けた子供二人のしたことは、結局は社会的に許容される範囲の罪であった。許されざる罪は本当は各人の心の中にある。そんなことを考えさせられる小説であった。

 性欲に駆り立てられてしまうのは性である。その顛末が他者に露見して罰を受けることもある。ただまずかったのは、時雄は妻子持ちであり、師であり、恋の応援者であったということだ。性欲自体が罪なのではなく、それが諸条件と結びついてしまったときに立ち現れるものこそが罪であり、その罪に対する理性の無力さ、打つ手のなさというのを思い知らされた。

P.S.
この小説は、これを元にした同名映画『蒲団』を鑑賞して初めて知った。令和を舞台として時代考証がなされ、また別の仕上がりになっていて面白かった。具体的には、時雄がもっと情けなく、みじめに描かれていたように思う。ぜひそちらも見てください!最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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