健康とスポーツ再考(運動音痴は損してる)
この間、かかりつけ医に行ったら血液検査の結果がよくなかった。先生にもこれからどうすればいいか話を聞いたが、調剤薬局の人にもあれこれ聞いてしまった。
「適度な運動が必要ですね」
と言われたので、
「運動? ぜったいしなくちゃいけないんですか?」
と少し食い下がってしまった。
それで調剤薬局にその場にいたもう一人の女性が、私をめんどくさいクレーマーだと思ったらしく、話の途中で入ってきて、
「そういう話でしたら先生(医者)の方がよくわかると思うので、診療所に電話しておきました。そちらで話を聞いた方がいいですよ」
と言ってきた。
私ともう一人の薬剤師との会話だけ聞いて、話に入ってもこないまま診療所に電話したという行為、好意的に考えれば「私に気を利かせた」ことになるし、悪意をもって考えれば、「うざいから消えてもらおう」と思って、手回しが早かったと言える(たぶん後者だったと、私は思っている)。
まあそんなことはいい。当たり前すぎるほど当たり前かもしれないが、「適度な運動が大事」と、みんな、だれでも言うのである。
しかし運動が得意な人とと、そうでない人では「適度な運動」の「楽しさ」が、天と地ほども違うことは医学界ではどう考えているのだろうか?
たとえば注射の痛さ、薬の苦さははだれでもそう変わらないだろう。
だが「運動」はどうなんだ?
私と同年代の男がいたとする。
中学時代から大学までテニスをやっていた。むろんプロになれるほどではなかったが、「テニスは楽しい」と思えるくらいの実力は持っている。
その後、就職してからもテニスを続けている。妻も子もテニスができるので、家族旅行に行った先でテニスコートがあったら、家族でテニスが楽しめる。
会社の同僚たちとテニスをすることもある。それが良いコミュニケーションになる。
プロテニスの試合をテレビで観るのも、楽しみのひとつである。
一方、私は子供の頃から運動全般が苦手だった。
何でもかんでもすべてビリ。逆上がりだけはかろうじてできたが、それだけの話だ。
いちばん困ったのは泳げないことだった。正確に言えば25メートル以上、泳げない。ずいぶん小学生時代、バカにされた。
くやしいので中学校の二年間か三年間、スイミングスクールに通ったが、まったく上達しなかった。
高校に入ったらプールがなかったので、そのまま泳げないことは忘れてしまったが、ティモンディ高岸の「やればできる!!」の正反対、「やってもできない!!」を水泳によって心に刻み込んだ。
もちろん球技もまったくできない。小学生時代、グラウンドで野球をしていて(当然、できないので外野に追いやられていた)飛んできた打球がおでこを直撃して大騒ぎになったこともある。
サッカーもまったくできなかった。
ちなみに、中高年の運動の手段として「散歩」が勧められることがあるが、意味がまったくわからない。
今みたいな酷暑にわざわざ外に出たら死んじゃうよ。真冬も同じ。
「散歩」で道端に新しい発見があってうれしいな、という気持ちもいっさい、ない。
サイクリングは、子供の頃、小学校六年生まで親から自転車に乗ることを止められていたのでなじみがない。
やや極端な比較をしたが、最初に挙げた架空の人物の方がトシを取ってからも「運動」について圧倒的なアドバンテージがあるのは明らかだろう。
あと、ゴルフにハマっている人も同じ。
それなのに、医者は「とにかく運動をしなさい」という。しかもド正論ゆえに、反論できない。
しかし小学校や中学校の持久走だったかミニマラソンだったかで、いちばん最後にゴールしてきた、あきらかに走るのが苦手な太った生徒を拍手で迎える風習みたいのがあったが、
ああいう屈辱を日常的に味わっているのが私である。
いつか、地球人類を全員滅亡させる。
生き残っていいのは、ジャパネットたかたの二代目だか三代目だけだ。
理由はない。
おしまい
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頼むよ……。