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天文ファンだけではなく全ギリシャ神話好きにおすすめ!『星のギリシア神話研究』

 さて、以前、「現在日本で最も星座神話を詳しく伝える本」として『星空大全』の感想を書いたのですが(下記リンク参照)、なんと偶然、同じ著者の方の新刊が近日発売との知らせを受けましたのでこの本も早速読んでみることにしたのでした。

 何はなくともまず言っておかなければならないのが、「同著者の類似テーマ本ってことは内容被りでは…?」なんていう疑念へのNO!!!!です。
 
 …いや、これはほんと失礼千万なんですが、ぶっちゃけ最初は『星空大全』の星座神話部分を抽出したものがこの『星のギリシア神話研究』なのかな?と一瞬思いかけました。いやたしかに著者が同じである以上は両書で重なる話ももちろんあるにはあるのですが、方向性としては全く異なる本であるということは言っておきたいです。
 
 というか、さも『星空大全』とのシリーズ本みたいな出だしで書き始めておいてなんですが、もういっそ『星空大全』のことは忘れてもらってもいいくらい、この『星のギリシア神話研究』は単体で完成されている本だということは言っておきたいと思います(もちろん、上記リンクにあるように『星空大全』もとても良い本なので本当に忘れてもらっては困りますが!)。
 
 それからもう一つ言っておかなければならない…というか本稿でこれからじっくり見ていきたい部分なのですが、この本は星座や天文といった枠に囚われず、ギリシャ神話の入門書として非常に優れているという点は本当に重要すぎるのでまず最初に言っておきたいと思います。もしもこの本を、「星の話がメインでギリシャ神話のことはそこまで詳しくは書いてないんでしょ…?」と思ってスルーしてしまう人がいるとしたら本当に勿体ないです!
 
 まあ、この『星のギリシア神話研究』を勝手に入門書扱いしてしまうのは問題がありますし、ギリシャ神話の入門と銘打った良書は他にも数多くあるのでそれを無視しろというのもちょっと違うのではありますが、そういう話はとりあえず脇に置いておいて、「ギリシャ神話入門で迷ったらこの本を読め!!」と思わず言ってしまいたくなる、そんな本です。

天文ファン向けではあるけれど…

 とはいえこの本がメインターゲットにしている層はまず天文ファンの方々である、というのは無視するわけにはいきません。なぜならこの本は天文雑誌『星ナビ』の連載記事を単行本化したものらしいので。
 
 「らしい」とか言っちゃってますが、はい、本稿筆者は完全に連載についてはノーマークでした、すみません…。というのもただのギリシャ神話好きの身からすると、天文雑誌というのはなかなかチェックする範囲に入ってこないんです…。
 
 ということは、ですよ。この本は天文ファンの人しか発売を知らないということも十分あり得るわけです。こんないい本を独り占め(?)にして天文ファンの人ズルい!ていうかこの本がもっと世に知られないのは勿体ない!という思いも本稿執筆のモチベーションになりました。
 
 というわけで、この本(というか初出は上述のように雑誌記事なのですが)の執筆意図としては、おそらくギリシャ神話や文化にそこまで馴染みのない天文ファンの方々へそれらを紹介しようというものであると思われます。…なのですが、別に「天文ファン」という括りを設けなくても全然成立してしまっています。
 
 天文ファン向けギリシャ神話解説というと、ギリシャ神話の話は申し訳程度に済ませてあとは星座の具体的な天文学的なあれこれの解説に移る…的なものを想像してしまうかもしれません。まあ、天文メインの本ならそういったやり方でも十分ではあるのですが、この本は違います。この本はギリシャ神話解説にガッツリ重きを置いているので、そのおかげで天文ファン以外の人にも十分すぎるほどの情報量になっているのです。
 
 それと、もしかしたら「天文ファン向けってことは、自分は天文学に詳しくないから天文ファンにだけ分かるような話されちゃったら嫌だな…」なんて思う方もいるかもしれません。でもその点についても心配ご無用。何の説明もなく天文学専門用語が急に出されるなんてことはなく、ちゃんと丁寧な解説付きで、もしかしたら天文学に疎いただのギリシャ神話好きのために解説してくれてるのでは…!?と疑ってしまうほどです。個人的に勉強になったのはケンタウルス族天体やAAA型天体の話で、これまで「なんか神話から取られたネーミングだな…」とぼんやりと思っていたものをこの本のおかげである程度ちゃんと理解することができました。
 
 こんな感じの本なので、天文学系の本だから…という偏見で読まないとしたら非常に勿体ないです。でもこの本が本屋さんや図書館に並ぶとしたら、おそらく分類的には天文学コーナーの棚に並べられてしまうとは思います。それもまた惜しい。ギリシャ神話コーナーにも並べて!!
 
 …とはいえ、ギリシャ神話に触れるきっかけとして星座はかなりメジャーだと思いますので、星座について調べようとしているお子様とかがこの本を手にしてギリシャ神話沼にハマったりすることも十分考えられます。そういうインシデントにも期待したいところではありますね。

入門者はもちろんギリシャ神話既習者にも

 それからこの本が優れている点は、星座の神話に関わる話だけではなくギリシャ神話全体を解説しようとしている点です。
 
 もちろん、星座の神話だけを解説しようとする際にもある程度のギリシャ神話の前提知識も解説しておく必要があるのは当然なのですが、星座に関わらない神話については他の本に譲ってしまう本がほとんどだと思います。しかしながら他のエピソードも知っていなければ星座の神話を深く味わうことはできないのもまた事実(たとえば、「ゼウスってばまた浮気して!この星座の話も浮気エピソードじゃん!」みたいな…)。でもそんな話をいちいち拾い集めるのも大変なわけで…。
 
 しかしこの本はそんなジレンマに真っ向勝負を挑んでいる本だと言えるでしょう。そして、だからこそ天文ファン向け星座神話解説書の枠を飛び越えて、ギリシャ神話全般の入門書たり得るわけです。
 
 いやほんとに、「ゼウスって誰…?」みたいなレベルでギリシャ神話を知らない人であっても読めるほど解説が充実してるんです。ただし、この本の構成としては章ごとにあるトピックがあり、それについて解説を行う…という感じなので、他のギリシャ神話入門書のように系統だってはいないのですが、それを差し引いても非常に丁寧な解説がなされていると思います。
 
 かと言って入門者向けの(悪しざまに言えば)表層的な話に留まるばかりではなく、なかなか入門書では踏み込まないようなディープな考察まで掘り下げを行っているのもこの本の魅力。ギリシャ神話をあまり知らない人だけではなく、かなりギリシャ神話に詳しい人であっても読み応えのある話が多いのではないでしょうか。
 
 というか、星座の神話という切り口でここまで突っ込んだ話をするギリシャ神話の本はなかなか類を見ない(おそらく初めてかも?)ので、そういう意味ではギリシャ神話既習者(?)にも十分オススメできます。

神話だけじゃない!

 それから彫刻、絵画、建築物などの美術作品の写真がオールカラーで多数掲載されているのもこの本のポイントです。
 
 「星座」の他に「美術」がギリシャ神話の2大入り口と言っていいとは思うのですが、これほどまでに美術作品が載っているとなると美術方面からギリシャ神話に興味を持った人すらなかなかに満足できるのではないでしょうか。いやほんと、中学校の美術の授業で使った資料集もかくやって感じで(もちろんギリシャ縛りではありますが…)大量の写真が収められています。
 
 それと、さらに注目すべきなのは、星座の神話やギリシャ神話すら飛び越えて「ギリシャ文化」の解説が主になっている章がいくつかあることです。
 
 「ギリシャといえば?」という質問をしたとき、ギリシャ神話を除けば、オリンピックだとかパルテノン神殿だとか彫刻だとかを思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。この本ではなんと、そういったザ・ギリシャみたいなものについてもメイントピックとして解説している章があるんです。たしかにこういったものは一般認知度は高めではあるんですが、ギリシャ神話の本では意外と脇に置かれがちな話題なんですよね…(アテーナーの話題のときにちょろっとパルテノン神殿について紹介されるとか…)。この辺もさりげなくこの本の特異な点ではないかと。
 
 それから忘れちゃいけないのが天文の話題です。…いや、天文ジャンルの本なのにこんな思い出したかのように言うのはおかしいんですが、まあそれは置いといて。前述したように天文学の話題もちゃんと詳しく解説されていますし、星座の成立だとか和名の制定の際のあれこれだとか、こういった話はやはり天文方面の切り口ならではといった感じです。ギリシャ神話の本ばかり読んでいても身につかない知識も多く、個人的にとても勉強になりました。

他のギリシャ神話入門書との住み分け?

 ところで、これまでギリシャ神話入門書がどうこう言ってきたわけですが、テメーは何者なんだよギリシャ神話入門書ソムリエか!?というツッコミが入るかもしれませんのでその辺も一応。
 
 ソムリエを名乗るには程遠いのですが、一時期ギリシャ神話入門書にハマりそればかりを読み漁っていた時期があったので、大体の傾向は掴めている…とは思いたいです。で、全体の傾向で言いますと、ギリシャ神話の入門書ってどれもそつがなく優等生的な本が多い印象です。
 
 つまり、ギリシャ神話入門書って深く考えずに何を手にとっても大体の場合は満足できるという割とありがたいジャンルではあるんですが、優等生的な本が多いだけに、押さえるべきところはどれもちゃんと押さえている、つまり悪い捉え方をすれば内容がかなり被り気味であるのも避けられないことでして…。
 
 果たして入門書を複数読むことに意味はあるのか?という観点もありますが(ただし読書家の方々の意見を参照するに、「入門書なんてなんぼあってもいいですからね」という人が割と多いような印象ではありますが…)、もしギリシャ神話入門書を複数読もうという人がいたら、おそらく刺激の足りなさが若干気になってくるかと思います。つまり、いい意味でのクセのあるものが欲しくなったりもするでしょう。
 
 なので、たとえばこの『星のギリシア神話研究』でも参考文献に挙げられている、藤村シシン先生の『古代ギリシャのリアル』なんかは基本をおさえつつも独特の語り口を持っていてギリシャ神話入門書界の異端児といった感じなのですが(この本が入門書かどうかは置いといて)、『星のギリシア神話研究』も独特さに関しては負けていないと思います。
 
 というか、前述したようにこの本は成り立ちからして「天文ファン向け」という珍しい切り口で書かれているのである程度特殊なのは当たり前かもしれないのですが、何にせよ、普通のギリシャ神話入門書を読んだ後の2冊目以降としてもこの本は飽きずに読むことができるという意味でも、やっぱり優れた本と言えるのではないでしょうか。

個人的イチオシ部分

 以降は個人的に特に気になったこの本の内容の話です。
 
 その前にまずものすっごい個人的な話をさせていただきますと、本稿筆者は「なぜか妙に広まってしまっている誤った星座神話」のアンチ活動とかをやってるんです(詳しくはプロフィール等から拙稿をお読みいただければと…)。
 
 そういうこともあり、今までの誤解を解くべくちゃんとした資料に基づいて書かれている同著者の『星座大全』を激推ししているわけですが、この『星のギリシア神話研究』にも知見のアップデートの必要性という同じ理念は掲げられているわけです。
 
 なお、以下にリンクさせていただきました著者の方のサイトにも、広まってしまった星座神話の誤解を検討する記事が公開されていますが、この本の24章はまさにこの話を記事にしたものです(…ということは、この本の丸々1章ぶんが太っ腹にも無料で読めるということです。とてもいい記事なので必読!)。

(※余談ですが、なんと上記の著者の方のサイトにて拙文を書評として取り上げていただきました。ありがとうございます…!あ、ちなみにそのお礼とかで今回ステマ記事書いてるみたいなことではないですからね念のため。)
 
 さらに他の箇所にも「カルデアの羊飼いが星座を作った」とか「ペルセウスがペーガソスに乗っていた」とかそういう誤謬を正すような記述がちゃんと盛り込まれています。
 
『星空大全』の感想でも言いましたがこういう営みは本当に大切で、半ばデマのように広がり定着してしまった様々な星座に関する誤解のさらなる拡散を押し止めるワクチン的な存在としてもこの本は大変に重要なんです。
 
 それから、この箇所だけの話ではないのですが、章の末尾には参考文献が必ず載せられているのも重要なポイント。何よりも、正しい情報を伝えようとする著者の方の真摯さが表れているのですが、さらに知りたい話題があったときに次に読むべき本を示してくれるという意味でも有用なんです。地味ながら大事ですこういうの。

総括、「とりあえず全ギリシャ神話好きにオススメ」

 というわけでこの『星のギリシア神話研究』、想定されているターゲット層である「ギリシャ神話について知りたい天文ファンの人」には言うまでもなくもちろんオススメなんですが、以上で書いてきた理由により「ただ単にギリシャ神話の入門書を求めている人」、そして「ギリシャ神話入門書の2冊め以降としてもうちょっと詳しく掘り下げられている本を読んでみようと思っている人」、「入門書はもういいと思っているけどなんか珍しい切り口で書かれたギリシャ神話の本が読みたい人」などなど、つまりは、とりあえずギリシャ神話好きならとりあえず読んどけ!!って感じの本です。


おまけ:若干の疑問点について

 そんなわけでこの『星のギリシア神話研究』はとても良い本なのですが、それでもやはり弘法も筆の誤りと言いますか、若干疑問を感じる記述がないわけでもないです。というわけで余計なお世話というか重箱の隅をつつくような話ではあるのですが、この本を読んでいる中で気付いた疑問点について最後に少し触れておきたいと思います。おまけ程度にご参照いただければ…。
 
 
・よくある誤解である「アルカスがこぐま座になった」という説はこの本でも残念ながら訂正されていません(アルカスがなった星座はうしかい座)。ただしこの説は海外でも相当根強いので仕方ない面もありますが…。
 
・うみへび座のモデルはレルネー沼のヒュドラーという話も、実は誤解の範疇なのですが(エラトステネースもヒュギーヌスもオウィディウスもただの蛇の星座としている)、やはり訂正はされていません。ただし、古注を丹念に調べればなくもない話であり、完全に誤りとは言い切れない話ではあります。さらにこの本で参照されている研究家のイアン・リドパス氏もレルネー沼のヒュドラー説を推しているようです。それはそれとして「うみへび座」という和名の決定にまつわる話や、レルネー沼が塩湖であってヒュドラーはウミヘビと言えなくもないなどといった話は興味深くはあります。
 
・いて座のモデルの一つとしてクロトスの話がされていますが、クロトスがサテュロス型であるかどうかは厳密に考えればやや疑問です。エラトステネースは「いて座をサテュロス型の星座と考える者もいる」としているものの、クロトス自身がサテュロス型とは言っておらず、ヒュギーヌスもクロトスは馬術の巧みさから馬の脚を持つ姿で星座にされたとしています。
 
・うお座とみなみのうお座の神話に関して。ここで魚に助けられた女神はイーシスではなくアタルガティス(別名デルケトー)の方が適切だと思われます。たしかにヒュギーヌスはイーシスを助けた魚と書いているので著者のミスというわけではないのですが、この話の舞台はシリアなのでエジプトの女神であるイーシスが出てくるのはヒュギーヌスの誤解の可能性があります。むしろエラトステネースが書いているアタルガティスというシリアの女神のほうが適切かと思われます。

・ヘルクレス座について。まず、ヘルクレス座の古代における名称「エンゴナシン」を「膝を折る巨人」としていますが、正確を期すならエンゴナシンには「巨人」という意味は含まれていません(「膝を折る者」程度の意味)。また、『アルマゲスト』においてこの星座はヘルクレス座と記されていてそれが現代に引き継がれているとのことですが、確認したところ『アルマゲスト』のギリシャ語原文においても「エンゴナシン」表記でした。おそらくは『アルマゲスト』の和訳でエンゴナシンがヘルクレス座と訳されていることに由来するのだと思われます。なお、『アルマゲスト』のアラビア語訳でもヘーラクレースとはされず、「祈る者」と訳されているようです。「エンゴナシン」がいつからヘルクレス座と呼ばれるようになったのかは興味深い問題ではありますが、少なくとも『アルマゲスト』からではないようです。
 
・ヒュギーヌスの星座神話に関する著作のタイトルを「天文詩」としていますが、これはどうやら後世にイラスト付きの本が出版された際に勝手に付けられた「Poeticon Astronomicon」の訳と思われます(ちなみにその本の写真はこの本にも掲載されています)。この作品は韻文ではないのでこのタイトルはあまり適切とは言えず、同書の他のタイトルであるDe Astronomia(これも後世の人が勝手に付けたものには変わらないのですが…)から訳した「天文学について」ないし「天文論」あたりが穏当なタイトルであるように思われます。また、この作品の著者のヒュギーヌスと『神話集』の作者が同一であるとされていますが、両者は別人であるという見方も根強いようです。
 
・残念ながら(と言っても些末な話ではありますが)、全般的にギリシャ語固有名詞に誤記やカナ書きルールの不統一があります。誤記としては「オイノマス」(正:オイノマオスまたは長母音を考慮すればオイノマーオス)、「ボイポス」(正:ポイボス)、「ボーテス」(正:ボオーテース)、「クレサオール」(正:クリューサーオール)、エイオース(正:エーオース)など。カナ書きの不統一については、メデューサ(古典ギリシャ語では「メドゥーサ」)、アフロディーテ(同じく「アプロディーテー」)などは英語読みのほうが有名であるのでそちらを優先させたのかもしれませんが、「フォルス」(ポロス)、「イフィゲニア」(イーピゲネイア)、「クリュタエムネストラ」(クリュタイムネーストラー)あたりは英語読みでもなくなぜかラテン語形になってしまっており、初心者には若干不親切かもしれません。また、ラテン語については「プロセルピーナ」の長母音の位置ミス(正しくはプローセルピナないしプロセルピナ)、またvの発音は古典式ではワ行になるのですが、他はそうなっているのに「ミネルヴァ」だけ現代式になっている、など。
 
・若干のギリシャ語に対して誤解されている箇所が(これも些末な話ですが…)。「ヒュエイン」は「雨」そのものではなく「雨が降る」という意味の動詞。また「尿」という意味の単語を「οὐρο」としていますが正しくは「οὖρον」など。


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