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避けることで逃げてない?
アレルギー
長男は4年前から舌下免疫療法をしています。もう長いです。そのかいあって、春先の花粉症の症状は大分落ち着いています。
この舌下免疫療法って何をするか、ご存じでしょうか。
毎日、舌の下に薬を1分間入れるっていうのです。その後、飲み込む。これだけといったら、これだけです。でも、毎日やらないとダメなのです。
たかが1分。されど1分。この1分をやるかやらないかだけが差になります。
それだけで流行している花粉症を抑えられるというのです。めちゃくちゃオススメです(大人になってからやろうとするとまあまあ薬代がかかるので、そこだけはご注意を)。
ただ、今回は毎日コツコツが大事ですよというお話ではありません。
アレルギーがある場合、基本的にはそのアレルギーを避けます。食物アレルギーが分かりやすいかと思います。
私の次男はピーナッツアレルギーがあります。ピーナッツを含んだ食べ物を食べると体がかゆくなったり、最悪の場合死に至ります。ですから、ピーナッツは食べないようにすることが対策となります。
アレルギーを拒否することで、身を守ります。これだけ聞くと、「何を当たり前のことを」とお思いかも知れません。
ですが、アレルギー対策はこれだけではありません。アレルギーとともに生きる道もあるのです。
実際、お医者さんからは、「そろそろ少しずつ慣れてみましょう」と言われます。つまり、健康を害しない程度で少量あえてアレルギー物質を摂取するのです。
そうすることで、アレルギーに体が慣れていき、最終的にはアレルギー対応がなくても良くなる場合もあるそうです。
冒頭出てきた舌下免疫療法とは、アレルギーの原因物質を意図的に体に少しずつ取り組むことで、花粉症のアレルギー体質を改善させる方法です。これの何がすごいって根本治療であるということ。
アレルギーを避け続けることではなく、アレルギーと共生する道を探すということです。
避ける
現代は、多様性の大号令のもと、良くも悪くも、個の意見が重んじられるようになりました。これは何も大人に限ったことではなく、子どももそうです。
家庭の中で子どもの意見というものもある程度、尊重されるようになりました。以前は「わがまま!」と大人の意見の影響力がとても大きかったです(あくまでイメージです)。
子どもの意見が尊重される。これ自体はとても素晴らしいことです。
しかし一方で、子どもが嫌だと言ったらもうやらせないという家庭もでてきているのではないでしょうか。
「ピーマンが嫌い」と子どもが言ったらピーマンが食卓に並ぶことがない。
「運動が苦手」と子どもが言ったら、「公園で遊ぼうよ」という声掛けがない。
まだ1回やったらましかもしれません。中には、
どうせ食べなさそうだから、そもそも出さない。
どうせ誘っても断りそうだから、声掛けすらしない。
と、勝手に親の中で完結していることはないでしょうか。
勉強を促すと機嫌が悪くなるから、自主性に任せる。
面倒くさいと言われるから、家族イベントに誘わない。
そういった心当たり一つや二つはあるのではないでしょうか。
確かに子どもの気持ちも分かる。好きな物があり、苦手な物もある。初めてのことやものは嫌悪感を抱きやすい。もろもろ分かる。
でも、だからといって、何でもかんでもそうやって避け続けてよいでしょうか。例えば、人と関わるのが苦手。だからずっと本を読んでいるし、公園にも行かないし、イベントにも行かない。
その気持ちは分かるからこそ、「そうだね。べつにいいよ。好きなようにして」と自主性という言葉に逃げていませんか?いずれ分かる日がくるだろうと楽観的に考えていませんか?
テクノロジーに加え、多様性の価値観も後押しして、苦手なことはしなくてもなんとか避けられる時代になりました。確かにどうしても嫌なことはあるでしょうし、得意なことで勝負していくのは大賛成です。今時、苦手なことがないよりも、得意なことが一つある方がとっても大事だと言うことは大賛成です。
でも本当にそれって避け続けるだけでいいんでしょうか。
アレルギーの食物を避け続けるだけでは根本解決になりません。基本的に摂取は避けつつも、少しずつ慣れていくことも大切だと思うのです。
必要だと思う体験や知識、考え方は、親として子どもに教えていくことが必要だと思います。少しずつでいいのです。なんなら気付かない程度でも。野菜を小さく切り刻んだり、すりおろしたりして、少しでも摂取させる。そんな気持ちが大切だと思うのです。
リスク
そして、それと直結しているか証拠はありませんが、リスクもとらなくなりました。これは子どもだけの話ではありません。
1回でも何かあれば、禁止。少しでもリスクがあれば禁止。その傾向がどんどん強くなっている気がするのです。
コロナが一番の影響でした。外出すると感染するリスクがあるから自宅待機。少しでも他人が触った物はアルコール消毒。対応自体は仕方がないと思います。何よりも命は大切ですから。それを批判するつもりはまったくありません。
懸念しているのはその考え方が他でも使われることです。
「〇〇するかもしれないから、そもそもしない」という対応が何に置いても使われている気がするのです。
振られるのが怖いから、そもそも告白をしない。というか恋をしない。というか興味ないということにする。といった感じです。やってみないと興味があるかどうかもわからないのに。
先ほどの例でもそうです。どうせ食べなさそうだから、そもそも出さない。どうせ誘っても断りそうだから、声掛けすらしない。
これもダメだったとき疲れるからとか悲しいからとかイライラするからとかの理由で、挑戦すらしないのでしょう。
そりゃあ、「食べてみたらおいしくなかった」とか「遊んでみたら全然楽しくなかった」とかもあることでしょうよ。でも、「食べてみたらおいしかった」ということも「遊んでみたら楽しかった」ということもあるのです。
「傷つきたくないからやらない」という選択をする人が多いこと多いこと。学校現場ではぎんぎんに感じます。もちろん、全部が全部やれってことじゃないですよ。私も傷つきたくないからやらないことあります。ずっとそれではまずいですよという話しです。
我が家の例
抽象論をえらそうに並べているだけでもダメだと思うので、先日あった我が家の出来事を紹介します(成功したからえらそうに書けるのですけどね笑)
次男は児童発達支援施設に通っています。先日、その施設で夏祭りがありました。家族で行こうということになっていたのですが、次男が急に「行きたくない」と。原因を聞いてもまったく話してくれません。「行きたくない。おうちに帰りたい」の一点張り。
次男は自閉スペクトラム症の診断がおりているので、こだわりが人一倍強いです。一度「こう!」と決めるとなかなか変えません。さて、あなたならどうしますか?考えながら、読み進めてください。ちなみに施設側の駐車場でかなり泣き叫んでいます笑
どうしたかというと、施設に行こうという言葉を変え、「電車を見に行こう」と促す言葉を換えました。施設は駅の側にあり、次男は電車が好きなのでそうしました。施設に行きたくない次男は施設とは反対の道を進み、線路が見えるところまでとりあえず移動できました。
そして、「暑いから駅から見よう」と駅に誘導しました。次は、施設が見えるポイントから電車見ようと促しました。そして、「暑いから施設の中から見よう」と促し、施設に入ってからは「くじだけ引いてみよう」「おもちゃだけもらおう」「かき氷だけ食べよう」と手を変え品を変え、負荷を少しずつかけていきました。最終的には「楽しかった!」と無事お祭りに参加できました。
さらっと書いていますが、始めから入室まで30分以上かかっています笑。しかも基本泣きと否定です。あー大変でした。向こうの職員の方から「パパ、暑かったでしょう。特別にどうぞ」と子ども限定のかき氷を食べさせてもらいました笑
「絶対に行かなきゃいけないわけではないから、大変ならやらせなくていいのに」と思ったあなた。
もう一度、最初から読んでください笑。2回読んでもその感想なら、私も引き下がります。
避け続けるだけでいいですか?というお話でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。