自己肯定感が低い原因を探る③_人生の岐路、進路決め
こんにちは。和田いずみです。
ご訪問いただきありがとうございます。
この記事は、前回の記事の続きとなります。
以下、今回の記事の目次です。
◆続きの前に
前回、中学生の時に味わった感情や出来事の振り返りをしました。以前はふと当時を思い出すと、
周りを気にして上だの下だの考えていた自分の愚かさから、「穴があったら入りたい!」という気持ちが湧き上がり、わーっと声を上げてしまうほどでした。
ですが今回、割と冷静に思い出し、客観的にその感情を見つめ直すことができました。これも振り返りの効果かな、と思っています。
わたしはnoteの初めての記事を書く際に、「振り返りによって得た効果を伝えるには、まずはこれまでのわたしの人生を説明する必要がある」と考え、このシリーズを書き始めました。
けれど今になって、これはわたしが初めて書く「物語」でもあるのかもしれない、と気づきました。
わたしはずっと、物語を書きたいと思っても書けず、そのことが自分をモヤモヤと苦しめていました。
それが今こうして書くことができ、読んでくださる方がいることは、自分にとっては奇跡のようです。
スキしていただいたり、フォローしていただけるのも嬉しく、励みになります。本当にありがとうございます。
最後まで読んでいただいたかたへ、「何か」を提供できるよう、書き進めたいと思います。
それでは、以下より本編のつづきです。
◆「大人になることってこういうこと」
中学三年の時の自分の変化(外見、しゃべる内容)によってクラスに居場所ができ、現実世界が自分を受け入れてくれたと感じました。
ここでいう現実世界とは、「当時のわたしが考える、若者にとっての普通の世界」とします。
現実世界では、「メディアが発信する流行を知る」、「漫画やゲームなどの話題でない会話についていく」、「恋愛に興味を持つ」ことが求められました。
幼い頃は、物語の世界のほうが現実世界よりも面白いと思っていました。
けれど、現実世界に目を向けて安心できる居場所を得たことで、今までの価値観に疑問を抱きます。
そして、現実世界の方が上位で、物語の世界は子どもっぽいものと位置付け、「大人になるってこういうこと」と思い、漫画家になる夢を手放すことを正当化しました。
ほとんど人生の中心だった物語の世界を否定することは、最初は心にポッカリと穴が開いたようでした。
けれど現実世界もまた刺激的でおもしろく、さらに高校受験のためそれどころではなく、物語の世界に浸る時間自体なくなっていき、次第に何も感じなくなっていきました。
そしてこの時得た世界観のもと生きていくことが、わたしの処世術となっていきました。
◆高校にあがって
高校にあがると、中学生のときに感じていたヒリヒリした空気が和らぎ、ずいぶん過ごしやすくなりました。
相変わらず人の目を気にする性格でしたが、仲の良い友だちもできて、心安らかでした。
中学の時って、学校中切迫した空気が漂っていたように感じなかったですか?
わたしには、たくさんの行き場のない感情が、学校中をぐるぐる渦巻いているような感覚がありました。
13〜15歳って、一番不安定な年齢なのかもしれないと思います。
高校に上がってからしばらく漫画や本から離れていたものの、それでもやはり物語が恋しくなり、最初に文庫本をよく読むようになりました。宮部みゆき、アガサクリスティーなどの本が家に大量にあったので、片っ端から読んでいきました。
こうしてまたも、物語に夢中になります。多角的な視点で展開される物語や、伏線がある物語がわたしが大好きなものの一つなのですが、二人ともミステリー作家だったことが要因としてあるように思います。
そして本をとおして物語に触れることで、次第に漫画も読めるようになっていきました。
ただ、夢中になっても、以前のように物語の世界が心の中心を占めることはありませんでした。
そして自分で描こう、物語をつくりたいと思うことはなくなっていました。
物語がふっと思い浮かぶことはあっても、その度に消し去り、なかったことにしていました。
自分には才能はなかったし、物語を作っても、現実世界でいいことは何もなかったからです。
◆進路決め
高校も二年生の半ば、進路決めの時がやって来ます。大学進学は決めていましたが、学部をどうするか悩みました。
当時の勉強の中で、得意、かつ面白いと思うものは、古典、現代文、英語でした。完全な文系人間です。反対に数学はさっぱりでした。
なので、文学部に行きたいと思っていましたが、両親からある意見を言われます。
「文学部だと、さらに就職が厳しいみたいだよ」
わたしが高校生の当時、就職氷河期のピークといわれる時代でした。現在の大学卒の就職率は98.7%に対し、当時の就職率は約76.7%という数字だったのです。
大学卒の若者がフリーターになるという報道もたくさんされていました。さらに「文学部は潰しが効かない」、というのが両親の見解でした。
「文学部に進んで、なりたいものがあるなら、そっちに進んでもいいと思うけど」
なりたいものなど、特にありませんでした。単に国語や言葉が好きで、得意だから行ってみようかと思っただけで、その先に何かがあるわけではありません。
文学部出身の就職先を簡単に調べると、教員、司書、公務員、マスコミ関連、編集者、小説家などの職業が連なっていました。
どれもピンと来ず、またどれもなれる気がしませんでした。
◆「こうでなければいけない」
そして当時のわたしが強く思っていたことが一つあります。
それは、自力で稼ぐ力を持てるようにならなければいけない、という思いです。
前世で何かあったのかと思うくらい、強くそう思っていました。
当時、結婚して母親になった女性がフルタイムで働くモデルケースを、自分の周りではほとんど知りませんでした。
そしてテレビ等を通して聞こえる主婦の、「夫と離婚したいけど、働いてないからお金に不安があり、離婚できないから我慢して生活するしかない」という声。
その声は悲痛で、そうなりたくないと、ほとんど恐怖に近い感情を持っていました。
大人になっていつかは結婚はしたい。子どももほしい。
でも、子育て中は働けないし(育休や保育園は今ほど当たり前ではありませんでした)、子育て後のキャリアの復帰は難しそうだ。
でも結婚しても、幸せな生活を送れるとは限らない。離婚したくてもできなくて我慢して一生を過ごすのは絶対にいやだ。
だったら、いざという時に自分の人生を選べるくらいには稼ぐ力を身につけなければならない。
そこで、資格を活かした職業なら、いつでも働くことができるのでは?という考えにたどりつます。
文系より理系、資格を活かした職業のほうが、きっと今後の人生設計に有利と考えました。
そしてわたし自身、読書以外だったら料理が好きでした。理系の中で化学なら成績もまだマシでした。
自分の興味関心、受験科目と資格を得られるということで導き出された進路は、
栄養士の資格が取れる学部に進む
でした。
またしてもわたしは、自分の一番好きなことを大事にしない選択をします。
◆人生の分岐点と選んだ道
わたしの分岐点は中学三年の夢を手放した瞬間と、高校二年の進路決定の瞬間にありました。
どちらも、「⚪︎⚪︎になりたくない」、「⚪︎⚪︎するべきだ」、というネガティブな気持ちで人生を選択しています。
「これが好き」、「こうなりたい」、「こうありたい」という気持ちから選んだわけではありませんでした。
「こうなりたくない」の裏には、「こうなりたい」がちゃんとあるので、その気持ちで選んでもいいと思っています。
でもわたしの場合は、自分で自分の一番好きなことを後回しにしたこと、軽んじたことが問題だったのではないか、と感じます。
今日々を過ごしていて、ふと、この時文学部を選んでいたら、どんなことを学べただろうか、どんな人生だっただろう、と思うこともあります。
今の生活を否定するわけではありません。
この時の選択は、今のキャリアにも繋がっていて、
その中でたくさんの学びや出会いがあり、今の家族がいて、今のわたしがいます。だから、この選択を後悔はしていません。
でも、いつか子どもたちが、人生の進路に迷ったらなんて言葉をかけるか?と考えたとき、答えは決まっています。
「やりたいこと、ワクワクすることの方へ進めばいいよ。それで道は開けるはずだ」、と。
それは、当時のわたしにかけたい言葉でもあるのでした。
続きます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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