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学問一般としての日本武道哲学というオーパーツ
Amazonでポチってた書籍が届いた。
歴史に関するところから読んでいるが、そこで展開されている議論を見ると、南郷先生の打ち立てた武道科学理論、そしてそこを土台とした学問一般である武道哲学体系の理論のレベルの高さを実感する。
というのも、現代の軍事学の最先端を行く見解が記述されている本書ではあるけれども、孫子とクラウゼヴィッツの著作と現代の軍事における実践に関する議論一つとっても、現代の軍事に関わるありとあらゆる研究者たちが、論理学の小学一年生レベルの基本といえる一般性、特殊性、個別性という論理のレベルの違いを弁別・理解することさえできていないという厳然たる事実が存在することが分かる。
現代の学問とされるもので、真に体系的理論化されたものは、南郷先生が打ち立てた武道學、薄井坦子氏が基礎を確立した看護学、そして南郷先生率いる日本弁証法論理学研究会の会員たちの何人かによって学問として確立されつつある医学、個別科学ではないが日本弁証法論理学研究会の確立した「生命の歴史」の発展理論くらいの範囲である。
つまり現時点では武道學、看護学、医学以外の個別科学として存在しているものは単なる研究的事実の無秩序な羅列、もしくは観念論的かつ平面的「理論」のいずれかでしかなく、残念ながら古代ギリシャ哲学の論理のレベルよりも後退すらしている分野さえ相当数存在するのが実態である。
軍事学もご多分に漏れず、先述の一般性、特殊性、個別性の弁別すらできない程度のレベルであり、ましてや学的世界観を問うことも、そもそも理論とは何か技術とは何か、その区別と連関や如何ということも武谷三男レベルですら理解されていない現実がある。
現代の学問は事実研究を学問的営為と錯覚する英米系のお粗末な認識がアカデミズムの主流を占めており、この状態が続く限り学問は永遠に完成せず、永遠に今の低レベルのままをさまようことであろう。
それはちょうど、現代剣道が過去の剣聖のレベルの足元にも及ばず、極意書の一片すら自分の技として理解することは永遠にできないという事実と同一のレベルと言える。
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そういう現状のため、逆に日本武道哲学の理論を個別武道の実践的修業と共に学び、会得することができれば、一気呵成といえるほどの早さで学問としての営為を促進させることができるであろう。
現代の学問とされるものが軒並みこのようなレベルであるため、タイトルに記述したように、日本武道哲学の理論体系は少なくとも近い将来に渡ってもオーパーツといえるレベルを保ち続けることは間違いない。
どんなに運動神経の優れた体力抜群の者がいてもそれだけでは武道の達人になれないように、どんなに頭の切れる秀才がいてもそれだけで学問は確立できないものである。
よって、特定の流派に入門して武道修業を積むことが必要なように、日本武道哲学の理論を学ぶことが学問確立のために必須の課程となる。
ただ、残念なことにアカデミズムの外側でいわば自生的に、アカデミズムとは無縁な環境で発生した武道學という個別科学の論理から出発して形成された武道哲学の理論は、およそ秀才という秀才が集うアカデミズムにとってはあまりにも「学界のお作法」と異なるが故に理解不能である。
それと共に、武道というアカデミズムからすれば「低俗で野蛮な」シロモノ、特にアカデミズムの主流である欧米人からすれば「黄色いサル」の野蛮な風習ごときが諸学問の王たる哲学をアリストテレス、ヘーゲルを超えるレベルで確立したということは、そのプライドを致命傷レベルで傷つけるものであり、今後もアカデミズムは武道哲学理論を無視し続ける以外のことはしないであろう。
武道哲学理論を含めた真の武道文化がジャポニズムのコレクションの一つという扱いから脱却し、学問から遠く離れた低レベルの事実研究しかできない欧米人の牛耳るアカデミズムにローマ帝国崩壊レベルの致命的な一撃を与えるには、今後さまざまな分野、特にアカデミズムの守備範囲とする領域までを武道哲学の理論の個別科学的展開として展開する以外にない。
その一角として、私も武道學をさらに発展させた軍事をも包含する兵法學の確立をライフワークとしている。
また、南郷先生の武道哲学理論そのものも「武道」の名を外してもヘーゲル以上の論理として発展している。
私も第一作の体系的書籍として『兵法の復権 武道と軍事の学問体系概論』を世に問えるべく研鑽を積んでいく所存である。