教育とは、進路を決めるのを少しでも遅らせることが本願である
こんばんは。
最近、いわゆる遅咲き人間、大器晩成型の人について論じられた本を読んでいました。
その中で触れられていたのがタイトルの一文です。
その本では、教育というのは、一般的に、何かの専門特化を遅くさせることにその本質的意義があるということを説いていました。
昨今、神童、天才というのが持て囃されています。
たとえば、マイクロソフトのビル・ゲイツ、Facebookを作ったマーク・ザッカーバーグといったSTEM(自然科学、技術、工学、数学)で「幼少期から」ずば抜けた成績を誇る人たちのようになることが、社会で成功を収める唯一絶対の成功の道と見做されています(少なくともアメリカでは)。
それに対して、本当にそうなのか?人間の能力とはその見方が全てなのか?という反論も次から次へと出ています。
そういった弁証法的闘論の流れで、では、そういう理系的天才以外の人の持つ能力について考えた時、それら理系的天才以外の人の強みは「寄り道して道草を食ってきた経験」ということが言えます。
そして、それは「専門特化を遅くすればするほどによい」という、世間一般の常識の真逆を行く考え方でもあります。
そのような「専門特化を遅くすること」の最大の支援が高等教育を受けて早くに人生の進路を決めないことというのは目から鱗でした。
ただ、論理的に考えますと、古代ギリシャでの哲学の要件の一つであった「スコーレ(余暇)」ということの焼き直しともいえます。
人間が育つということは、本当に奥が深いと思います。