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産業空洞化の引力と斥力:Jocksは工業数学の夢を見るか?
産業空洞化の「斥力」
以前書いたトッド本人による「西洋の敗北」の解説にも少し書いたとおり、アメリカを中心に起きている、いわゆる覇権国家の支配者層(別名:グローバリスト、ディープステイト)が力を失っているのは、「自らの持つ生産力が凋落してきた」ことによる。
これは半面では発展途上国の経済発展に伴い、安い人件費でそれなりの技術水準の生産が可能となり、新自由主義のドグマによってグローバリズムが推し進められた結果、実物生産の産業が先進国から発展途上国に吸い取られていったことによる。
しかしこれは半面でしかなく、もう半面は何かというと、先進国の支配者層自体がそれらを排出していったという斥力としてのエネルギーを見逃してはならない。
この斥力の存在こそが、トッドが「トランプの保護政策は正しい。しかしそれでもアメリカの凋落は止まらない」と言う根拠である。
この斥力が存在しない状態であればたしかに保護政策によって産業空洞化は止まり、国内産業(特に製造業)は息を吹き返す。
だが、この斥力がある場合、途上国が産業を吸い取る引力が無くなっても先進国自体が産業空洞化を推し進める力が働き続けるために産業空洞化は止まらずに進行し続ける。
ではこの「斥力」の正体は何なのか?
これはトッドの言うように米ドルが基軸通貨という本質的構造はもちろんであるが、今回はこういった経済学的側面からではなく、教育ないし社会構造の側面から考えてみたい。
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教育面から見た斥力
スクールカーストと学習忍耐力
「スクールカースト」の発祥地であるアメリカの学校内人間関係の構造見取り図を描くとおおよそこのようになる。
![](https://assets.st-note.com/img/1737271692-BbD45p2jwEqmexcdPGC98OHF.png?width=1200)
この現代封建制のヒエラルキーのトップに君臨するJocksとQueen Beeの属性はかくの如し。
1.イケメン、美女(かつ高身長でマッチョ、スリム)
2.実家が太い(アッパーミドル以上の家庭出身)
3.男(Jocks)は野球、アメフト、バスケのスター選手、女(Queen Bee)はチアリーダーのレギュラーメンバー、演劇部の主演女優
4.カースト下位の人間(いわゆるガリ勉、キモヲタ、陰キャ)への旺盛な差別意識
以上がおおよそ現代封建制であるスクールカーストに君臨する「大君主様」の最大公約数的な特徴である。
これらの君主の下に取り巻きやパシリが存在し、その下に、陰キャ、ガリ勉、キモヲタなどのいじめのターゲットになる層が存在している。
そしてここで注意が必要なのは、アメリカではこのスクールカーストがほぼそのままの形で実社会にスライドする点である。
つまり、アメリカのスクールカーストは学校に限らずアメリカ社会そのものの相似形の縮図と言える。
そしてかつてのヨーロッパの封建制でもそうであったが、上流階級の人間は基本的には勉強しない。
というのも、勉強をして何かを身につける、難しい概念を理解するという必要性があるのは上流階級に「使われる」人間であり、生まれながらにして支配者層であることを保障されている階級に居る人間は、よほど自分に何か直接的に直結してくる利害が無い限りは自分以外の社会状況について学ぼうとはしないものである。
そのため、スクールカースト上位の人間にとっては、プラモデルの組み立て書の最初に書かれてあるような「何のためにこんなことするんだ?」というような基礎学習の積み上げがおざなりになる傾向がある。
なぜなら、そういった学習を修得しなければ社会的上位層に浮上できないという動機もなく、またこういった学習を修得しようとコツコツ積み上げていく人間や、その学習が好きでやっている人間を蔑むという社会文化的な同調圧力が存在するからである(属性4にあるように、ガリ勉やヲタクを差別することがスクールカーストトップの人間の半ば義務のような文化があるから)。
何もしなくても将来は学閥および卒業生ネットワークのコネで社長や管理職になれるのに、なぜ理解するのに骨が折れるような数学の基礎学習などを、女の子とのデートの時間を削ってまで積み上げなければならないのか?というのが大方のJocksたちの認識であろう。
これは教え方という点からも検討を要するものであるが、少なくとも現在の学校教育、特にアメリカの学校教育と教育内容を踏まえていうならば、こういった上位層の人間が実になるレベルでの基礎的学習を積み上げることはないと言ってもよい。
『西洋の敗北』の中でも少し触れられているが、アメリカでのSTEM(理工系)教育を受ける人間の人種別内訳の過去と現在の比較を見ても、アジア系学生がSTEM教育を受ける学生の割合として唯一群を抜いて増えているが、他の人種、特に白人系は激減している。
そしてSTEM課程にいる学生の絶対数も、人口が1/3程度のロシアに比べてさえ数万人単位で少ないというのがアメリカの現状である。
文系に集中する大学生と大卒を採らなくなった企業
文系の学問に意味が無いというつもりはない。現にこの記事を書いている私も文系の学歴を積んできているし、そもそも世界の全てを対象とするという点で、人間の精神や人間の精神文化の蓄積を研究することも非常に大きな意味を持つ。
しかしながら、現在の大学で行われている文系の教育や研究の内容が薄くなっており、極めて中途半端なものであることもまた事実である。
そして、文科系のほとんどの人間にとって、学問特に高等教育は単に「飾り」としての意味しか持っていないというのが正直なところではないかと思う。
アメリカでも事情はほぼ同じであり、それに対する傍証が「企業の採用条件で大卒を必須とする要件を撤回する企業が増加してきた」ということ。
つまり、大卒が卒業生の能力を保証するものではなくなっていると共に、大卒でなくても実用的な能力を身につけているのであれば採用するということでもある。
逆に大学の特に文系で4年間も無駄に歳をとるだけで、何の生産技術も身に着けていないという人間は採用しないということでもある。それだったら大学卒よりも若く、実用的な能力を持った人間を取った方がいいという潮流にシフトしてきている。
しかしながら、アメリカも日本以上の人手不足であることは方々から漏れ聞こえるとおりであり、そういった人手不足が解消しないというのも、残念ながら今までのような「お飾り学問」の天ぷら学位といっても良いものしか持ちえていない学生しか輩出していない教育課程との根本的なズレがまだ解消できていないことも意味する。
この結果、中共やロシアは極超音速ミサイルや第六世代ステルス戦闘機をロールアウトして一部は実戦投入できている一方、アメリカは50年近く前に設計された戦闘機を改修して凌がなければならず、新型戦闘機の設計すらままならないことになっている状況として現出している。
これもブルシットジョブ・パラドックスの一現象であり、猫も杓子も「エグゼクティブなんとか」という、居ても居なくてもどうでもいいが給料だけはやたらと高い職に就こうとしていることで、実際に設計や製造などを行う人間がどんどんいなくなっていて、社会的に見た場合に人手不足となっているということともいえよう。
教育面から見ても、こういった社会を実際に成り立たせる職業及びそのような職業に就くための教育課程に進む人材が必要数を下回るレベルで社会的な最低充足率割れを起こしているということである。
社会構造からみた斥力
悪徳弁護士とイカサマ会計士による戦争
『西洋の敗北』でも言及されているように、アメリカ(欧米)の戦争は、弁護士と会計士が行う戦争となった。
つまり、金融封鎖を中心とした経済制裁というやり方での戦争であるが、このやり方がもはや通用しないのはウクライナ戦争で明らかになった通りである。
実際の戦争において、劇画『斬殺者』にて描かれていた「いかな隙のない芸とてしょせん芸は芸でしかなく、酔漢の拳固をも防げはせぬ」という場面の描写が現実化してしまったと言えよう。
また、先述したように、アメリカの実社会はスクールカーストがほぼそのまま横滑りした社会である。
つまり戦争を指導しているのもJocksのようなスクールカースト上位者であり、彼らがやってきたことは、反撃できないのが分かりきっているスクールカースト下位の人間を優越的な立場を笠に着て一方的にいじめることだけであり、決して自分を脅かすレベルの相手に自らの命を張って戦い抜くことではない。
つまり、弁護士や会計士のように、既存の社会構造、法律の執行などに依存して命令を出しているだけの人間にとって、自らの持つ強制力(武力など)を以て直接的に意志を強要せんと挑んでくる相手と対峙した経験がなく(それらは警察に外注すればいいこと)、そのため、自らの命を的にして、自らを殺し得るレベルの相手との直接的対峙ということには極めて脆弱である(ウクライナ戦争でもそれは証明済み)。
社会構造への無制限な依存という「裸の王様」化
ヘーゲルによる分業論の結論として、分業は「労働を抽象的な労働へと導くとともに、一技能への制限による社会的連関への無制限な依存をもたらす」とある。
現代の欧米はまさにこの通りの社会となっており、労働とされるものの内容はますます具体的な世界への働きかけから離れて、労働のための労働という意味で抽象的な労働になっているとともに、「スクールカースト下位者を足蹴にして、そこからの貢物を貪る」という一技能への制限による社会的連関への無制限な依存状況がもたらされている。
一言で言えば「裸の王様」化であり、既存の社会構造に依存しているだけの存在にすぎず、自らの生存を確保する手段すら失って、社会構造が保障する地位を惰性的に受け継いでいるというただその一点のみに自らの運命を委ねているとも言える。
なので、ヘロットやペリオイコイの反乱に備えて過酷な軍事訓練を自らに課して常在戦場であったラケダイモン人(スパルタ人)のようにあるわけでもなく、コロンバイン高校銃乱射事件に見られるように、スクールカースト下位者が武力をもって「暴発」すれば逃げまどい、警察機構を動員して鎮圧する以外になすすべがないのが支配者層の実態なのである。
そして警察機構も新自由主義の原理によってどんどんスクールカースト下位者に近づいており、今後警察機構が反乱者に「調略」されない保障などどこにもないのであり、それが近年「アメリカで内戦が起きたら?」という想定の映画の登場、あるいは格差社会の隠れた差別構造を描き出した『ジョーカー』のような映画となって現象している。
ましてや自らの生存に必要な物資などを自らで生産する能力は皆無に等しく、サプライチェーンが切断されれば自滅する以外に道がないのはロシアではなくアメリカの方でもある(ロシアの食料生産の8割程度はダーチャという別荘付き家庭菜園で行われてる)。
このような現実を糊塗し、目を背けて自分が死ぬまでの間に体裁が保たれさえすればいいという「いまだけ、金だけ、自分だけ」の発想の人間が考えるのが「奴隷を反乱者にぶつけて一時しのぎをする」ということであり、それこそトッドが指摘するように、欧州、中東、アジアにおいて、属国をユーラシアのハートランド諸国にぶつけるという形で演出するということに他ならない。
国際関係の相似形としての日本の国内事情
Jocksとしての東京
アメリカの国内事情はアメリカを中心とした国際関係の縮図でもあり、それは同時に日本国内における縮図でもある。
日本の場合、アメリカほどスクールカーストがそのまま実社会にスライドするわけではないが、資本の偏在としての企業単位、地域単位での「裸の王様」現象は存在する。
おおざっぱにみれば、東京をはじめとした大都市圏と、それ以外の地方であろう。
スクールカーストの図式に当てはめれば、東京を筆頭とした大都市がJocks、地方都市がその取り巻きやパシリ、そして地方の田舎に当たる地域がNerdsに当たる。
こうしてみると、日本の権力勾配や資本の偏在なども肌感覚として納得できるレベルでみることが出来るように思う。
そして産業構造も非常によく似ており、東京をはじめとした大都市にはほとんど製造業は残っておらず、ほとんどの製造業は地方都市から田舎にかけて存在している。
また第一次産業となればさらにその傾向は高くなる。
つまり、日本国内で見れば、大都市圏の産業が空洞化していて、そのことによって大都市圏がますます生存に必要なモノの生産を地方に頼らなければならなくなっているということでもある。
地方の活路もトッドの「日本への提言」と同じ
このような国際環境下において、トッドの日本への提言は「何もしない」ことであった。
アメリカの経済的凋落は必然かつ不可逆的であり、もはや保護政策を行っても止めることはできない。
なので、アメリカが自滅するまでアメリカの同盟国であるかのようなフリをしつつ、アメリカが自滅する前提で自前の生産力の蓄積を行いながらアメリカの要求をのらりくらりと何もしないでかわし続けることである。
地方、特に田舎での「根拠地」ないし「解放区」の建設もそうで、中央政府をアメリカに見たてれば同様のことが当てはまる。
グローバリスト・ディープステイトのパシリの日本政府=中央政府のやることなすこと全てが地方特に田舎にとってマイナスのことであるため、それをかわすための方法を取りながら、東京圏を始めとした大都市圏が凋落するのをむしろチャンスと見つつ、自らの地域にどれだけ自前の「閉じたサプライチェーン」の生産基盤並びに文化を蓄積していけるかがその地域が今後発展するか荒廃するかの分かれ目であるといえよう。
私の目指す武道修業・修行のための生活共同体を核とした自給自足生存圏構想も、そこに武道文化を蓄積しながらの、土着のさまざまな生活文化と併存しながら、第一次産業及び手工業的第二次産業によって生存を確保し、可能であれば近隣にそれなりの設備を要する第二次産業の疎開的ネットワークを形成すること=戦国の領国を形成することを目指すもの。
なので、戦国の國奪り=ゲリラ戦略における根拠地の建設に向けて、実体面ではまずは第一次産業と手工業的第二次産業を身につけることを目指している次第である。
国際関係の潮流をふまえて「多極化する世界の中で一極を形成する」ことが日本の国家としての大戦略であるように、個人と地域の小社会の生存戦略も国家戦略における大戦略と同様である。
「何もしない」ために何をするか?という逆説的な理解が求められており、その手段の一つが「非暴力、不服従」であるということ。
これができるかが今後の日本の命運を左右するものであると考えている。