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付加価値とは何か?:資本主義の真の限界とその克服へ
GDPは「Gross Domestic Products」=国内総生産のことであり、それは何か?を説明すると「その1年国内で生産された付加価値の合計」です。
この「付加価値」というのが文字に騙されていろんな人が好き勝手なことを言っていますが、経済学的に言えば「お金が払われたサービス、財(物)」のことを言います。
例えば新しいゲームソフトが開発されてそれが買われた。これは付加価値です。
腰が痛いのでマッサージをしてもらい、マッサージ代を払った。これも付加価値です。
穴を掘って埋め戻して、失業対策で雇用された給与が支払われた。これも付加価値です。
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しかし一方で、
長年磨いたプロ級の腕前のヴァイオリンを友達の前でタダで演奏した。
主婦が夕飯を作った。
私が剣術の稽古をして、学んだことを論理化して論文を書いた(ブログで発信した)。
これらについては一切付加価値は発生していません。
なぜなら、お金はビタ一文動いていないからであり、そのため経済学的には、こういった活動には一切付加価値が無いということになります。
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これが資本主義の限界と言われるものの中で一番のことでしょう。
つまり、お金の動きの無いものを評価することができないということです。
そして人間のやることの多くの事、あるいは人生の目的と言われる重要なもののほとんどはお金の動きを伴わないものであることが多いです。
なので「付加価値」と言った時に、それは経済学的な意味で価値を持つものなのか、経済学的な定義を度外視して「そのもの」の価値を測るのか?という二つの尺度が必要になるでしょう。
多くの場合、これらを混同してしまうことが喜劇的悲劇の始まりになります。
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最初の例に出したように、「穴を掘って埋め戻す」という全く無価値な行為も、それにお金が払われれば、その無価値な行為は「付加価値」を産み出したということになります。
(なので、ケインズの有効需要の理論が出てきます)
つまり経済学的な意味で「付加価値」を産み出すには至極簡単で、「お金を払いさえすればいい」ということです。
なので「お金を創る権利を持つ=通貨発行権を持つ」中央政府がお金を払うことで付加価値を人為的に生み出すことがケインズ主義経済運営の肝になります。
ただ、一方で、後半に挙げた例のように一円たりともお金は動かなくても自分の人生にとってかけがえのない「価値」をもつものもあります。
しかし経済的にはそれらの「付加価値」はゼロです。
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近代社会においては、経済学的な意味での付加価値と人生において必要とする価値はほぼイコールでした。
なので、経済学的な意味での付加価値を追求することが、人生を充実させることとほぼイコールだったということであり、別言すれば「お金になるものを生産すること」が人生で必要とするものを手に入れることでした。
しかし、近代の矛盾が噴出してきた現代においては、そもそも近代が前提としてきた、経済学的な付加価値と人生において必要とする価値がイコールでつながりにくくなってきたという変化が起きてきました。
というのも、生産能力が向上することによって、それまで自分の人生に必要だった価値としての経済学的な付加価値が飽和してきました。
つまりマーケット上のフロンティア(未開拓地)が存在しなくなったということです。
そのため、近代が追い求めてきた経済学的な付加価値は「値崩れ」を起こすとともに、それがコモディティ化、つまりありふれたすぐに手に入るものに変わってしまったため、人生の目的とするに足らなくなってきたという社会の変化が起きてきました。
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では、これからどのようにすればいいのでしょうか?
経済学的な付加価値の生産の世界から無縁の暮らし(たとえば売れない極貧芸術家のようなもの)もできなくはないですが、多くの人にとっては経済学的な付加価値と完全に無縁でいるということは難しいでしょう。
しかし、一方で経済学的な付加価値のみを追求する人生は自分の人生の目的とは違うでしょう。
そして経済学的な付加価値を得るための労働をしなければならないが、自分の人生の目的の追求を邪魔する(時間を食うことによって)ということもあるでしょう。
現代はこういった時代ですので、ここでは二刀流が必要となるでしょう。
つまり、経済学的な付加価値をより少ない時間で稼ぎ出す方法を模索するとともに、自分の人生の目的を追求するということです。
現在の現実的な解決策はまずこの「対立物の統一」をはかることであり、それ以後のつまり真のポスト資本主義は、現段階では模索しようがない=新しい時代の結果が原因となってその先の時代の結果になるということです。
つまり、原始時代の人間が中世や近代を想像することなんてできなかったように、我々もポスト資本主義というものを想像することはできない=単なる個人的予想に過ぎないということです。
実際にどうなるかは偶然性というものもありますが、今の経済構造、そしてそれがどう動いていくかを論理的に洞察することによってアウトラインを描き出すことが人間にできる最上のものであり、詳細を予想することは不可能であるということです(偶然性に左右されるので)。
なので、ふわふわと観念の遊びに堕するのではなく、今を正面から見据えて、今とそれに直接つながっている未来を改善していくということに集中する、その結果として自分が想像していたものを超える未来が再び展開していく、というサイクルが振り返ってみれば歴史と呼ばれるようになります。
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資本主義の限界の話から少しそれましたが、資本主義的には「お金が支払われるか」が価値を測る唯一の基準であるため、その前提から漏れるものの価値を測ることはできないということでした。
そして現代において人生で大切な価値と言えるものは、お金の支払いが発生しないものが多く、そのギャップを埋めることが人生を豊かに生きるためのヒントであるということでした。