「優しいね」の葛藤
久しぶりに言われることが増えた。
「優しいね」
相変わらずデフォルトが「優しい」なので、
再びどう振る舞うべきか悩ましくなっている。
なぜなら、「優しい」を是としない環境にいるから。
鎧を身にまとった人たちばかりの環境で、「優しい」は稀有な存在になる。
そう、扱われる。
ぶっきらぼうさ、淡々とした言葉、批判批評、怒り、など。
むしろそれが「強さ」に見えて、先輩たちの身の振り方に憧れた。
同時に、優しくない環境にいると、優しい自分でいたい気持ちが顔を出す。
中途半端に身につけた「優しいね」の出力系がまるで「自分らしさ」かのように、再び思い出される。
だけど、その優しさの裏にはやっぱりいろんな感情がうごめいていて。
ましてや今は、新人ならではの委縮や様子見が相まって、自分らしいとは程遠い「優しさ」が独り歩きしている気がしてならない。自信がなくてヘコヘコしているだけかもしれないのに、優しいねと言われている感じがする。
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なぜ、優しくない先輩たちに憧れるのかというと、そこに「プロ意識」が宿っているからだと気づく。
中途半端なクオリティを良しとしない職人気質。
なれ合わず一定の距離を保つ緊張感。
取材、編集、試写のたびに、そのヒリヒリ感=プロだと思わされてきた。
でも、それがプロだとするならば、わたしはどうしても目指せない。
そんな強くない。
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改めて目指したいプロってなんだろう?と考えたとき、
「勤勉なプロでいたい」と、思った。
結局優しいねと言われようが、強くなったねと言われようが、
考えるべきは出力系(アウトプット)よりも、まずはインプットだ。
とにかく勉強することだ。
続けることでしか、自信も、優しさのよりどころも、見つからない。
映画、本、番組。
質より量でインプットする1年にしたいな。
P.S.
宅浪したことないけれど、宅浪みたい。
自習と模試が続くような日々です、現職。
きっと頑張り方掴んだら楽しいんだろうな。
愉快な場所をみて羨ましくなることもあるけれど、知らない土地で孤軍奮闘する経験なんて、今どきこんなリスク負わせてくれないよな、万歳!の気持ち高まり。
自分でいっぱいいっぱいで連絡無精加速するけれど、どうか見捨てず。早く自信いっぱいの自分になって会いたいなあ。