「はじめに言葉ありき」とはいえ、言葉は・・・
「はじめに言があった」ヨハネ福音書の冒頭の言葉として有名です。
この意味について、いろんなことが言われていますが、この「言葉」をそのまま「言葉」と受け取っている人もかなりいるのではないかと推測しています。
私は聖書を読んだこともないですし、研究したわけでもないので、この題材を扱うに値しないと思いますが、「言葉」について少々思うことがあるので、この有名なフレーズをお借りして話を進めたいと思います。
「言葉(言)」は神の意思を代弁するもの
はじめに言があった、という書き始めですが、この「言」はキリストを意味しているそうです。そしてキリスト教でいう「父」は神(創造主)であり、父の意思を伝える役割のキリストは人として生まれ、神の教えを説いていったのでしょう。
聖書では父、御子、御霊という言い方をするのかな?これが「はじめ」の時にいた(?)神で、日本の神様も最初は三柱現われましたね。
「神との対話」では、『まずはじめにあったのは「存在のすべて」であった』と神様は説明しています。
存在のすべてはすべてであるうえにほかにはなにもない。何もないがゆえに無であり、自分を体験的に知ることができなかった。そこでどれだけ「存在のすべて」が素晴らしいかを知るために、自分を分割させた。
「これであるもの」「あれであるもの」「どちらでもないもの」の3つの要素が突然生まれた。
ざっくりですがこのように説明してます。やはり3つなのです。この3はとても重要で、自分を知るための相対性を生み出す大事な要素でもあるわけです。
自分を知るために、自分以外の者(物)が必要で、その者(物)とは分かれていなければいけません。そして自分と自分以外の者(物)との間には距離が生まれ、それとともに時間も生まれます。
つまり区別、分離するための「3」なのですね。
「言」は神であり、神ではない
分離して生まれた3つの神は、存在のすべて(創造主神)と神と分離した神の一部が2つということで、その2つ(柱)は神であるとも言えるし、創造主の神(本体)ではないわけです。
分離したわけですが、存在のすべて(神)は、分離させた神も存在のすべての一部(内包されている)なので、神そのものであるとも言えます。
もうなんのこっちゃですが・・・
さて、言葉について話を戻しますが、イエス様が吐く言葉は神の言葉であり、神であるとも言えます。しかし言葉は、言葉そのものは物事を分離、区別させる意味があります。
コミュニケーションの手段としてもそうですが、物事を分離させる手段として神は言葉を作り出したのでしょう。言葉は人と人とをつなげる手段になるのですが、一方で人を区別し分離させるという性質もあります。実に巧妙に神が作り出した二元性があるわけです。
神は自分を体験的に知るために、分離を繰り返し、我々人間を作ったようです。神を知るためには神以外のものを知らなければなりません。それが私たちです。
本当の意味では、人間は神とは分離していないのですが、それを神でない人格(自我/エゴ)を持つことにより、そして言葉を持つことにより、分離、区別を強化して、人は神ではないと思い込んでいます。
愛の存在である神の素晴らしさを知る経験をするために、相対的な状態である「不安」「恐怖」を植え付けられたのです。
そして不安を乗り越えていきながら愛を知っていく経験をするのです。
言葉は自由であり、かつ制限するものでもある
言葉は、様々なことを自由に表現を可能にし、人と人との繋がりを広めていく貢献をしました。その一方で、大きな制限も存在することになったわけです。
言葉はあくまでも表現方法の一つであり、思うことのすべてを伝えきれない、正確に伝えきれないという制限と、諸々の事に名前を付けることにより、明確に区別されてしまうという制限を持っています。
区別することはコミュニケーションをするうえで、便利ではありますが、その区別を人に当てはめた時、それがその人の特徴を表すことになります。
「山田さん」などの名前、「部長」などの肩書、「人見知り」などの性格、「いじめられっ子」という過去の経験、など様々な「私はこんな人」というレッテルが区分になります。
それにより、その人は区別された言葉にとらわれ、そう思い込み、そういう人生を歩むことにもなりかねません。区別は分離であり、分離は様々な苦しみを生み出します。この苦しみを生み出すのはエゴです。
言葉の自由さという点では表現だけではなく、言葉は力を宿していると考えられています。日本には言霊という言葉があるくらいですからね。
言葉を口で発することで音が生まれ、音は振動していますから物理的にもエネルギーを有しています。そのエネルギーにより様々なものに影響を及ぼし、現実を創造していくツールにもなるわけです。
神様がらみで言えば、もちろん言葉も神の一部になるわけです。日本には「八百万の神」という言葉があり、あらゆるものに神が宿っていると考えられてきました。だから日本にはたくさんの神様がいます。
そういう意味では、神に対する考え方は「存在のすべて」に近いものがあり、神の性質をわりと正確に言い表していると感じます。
しかし、あらゆるものに宿っている(あらゆるものが神である)ため、分離、区別された人間は便宜上名前を付けて区別させたいので、たくさんの神様が生まれたのではないかなと推測しています。
本当は元々(というかそもそも)一つであるのですが、区別する存在として世界を認識するようになっていったのです。
ちょっと脱線してしまいましたが・・・
言葉は便利ではありますが、制限を設けること、正確性に欠けることを認識しておかなければいけないなと。
だからSNS等で気軽に発信できる今だからこそ、安易に人の言葉に反射的に反応することは気を付けなければいけないと思います。ますます区別を生み出すからです。
それこそ、その人の発信する言葉の意味、想い、など正確にはわからないからです。本当はもっと奥行きがあるわけです。そこを感じ取ろうとせずにうかつには発言するのは危険が伴います。
「神との対話」でも神はこう言っています。
『一方的に決めつけたり、非難したりしない方がいい。なぜ起こるのか、何のために起こるのかあなたがたには理解できないのだから』
思考は何かを生み出す(創造する)のにとても役立ちますが、多くの場合、いやほとんどのと言っていいかもしれませんが、思考はエゴによる思考であるので、かなりの部分で【自分の価値観に合致するように都合よく考えている】ので、そこに気づかなければいけません。しかし多くの人は気づいていません。
結局のところ、私たちはあれこれ考えても、何も真実はわからないのだと感じるようになりました。
「考えたこと」ではなくて、体験経験し感じたこと、また体感したことの中にこそ、真実が隠れているのではないか、とそう感じます。
だからこそ、過去や未来のことを考えて不安になるよりも(ますます分離が進む視点)、今この瞬間(何も存在せず、かつすべてがある)に在ることがものすごく重要だと感じています。
分離を好むエゴの声に気づきながら、私たちはあらゆるものを手放し、視点、視野、思考、意識、すべてを拡大させて眺め、ワンネスであるということに気づいていく時なのかもしれません。
実際にそういう人が増えてきた、また気づきたいと思う人が増えてきたのかなと思っています。それがもっと加速していくのではないかと思ってます。
人にはそれぞれステージがあるので(良い悪いはない)、まだまだ分離の世界を経験しなければいけない人もいるでしょうし、分離の世界からワンネスの気付きを得て、この世界を楽しむ人もいるでしょう。
物事はなるようになり、起こるべくして起こっているので「不安から何かを行動する」というような無駄な抵抗は止めて、今に在り続けるように意識していれば、良いように事は進むと感じています。
何もしないわけではなくて、すべきことが起こり、するようになるということです。なかなか奥が深いですね。