獏|短編小説
小さなカワウソのぬいぐるみは、いつも微笑んでベッドの隅に横たわっていました。
小さい頃、隣町の雑貨屋さんでお父さんに買ってもらったコツメカワウソのぬいぐるみです。ええ、もちろんひと目惚れでした。水色の手帳を買いに来たんでないの、とお父さんが訊いても、わたしはこの子を迎えにあがるために来たの、と言って聞かないのでした。少々粗い黒色の縫い目が可愛らしいアーチ状の目を作って、黒豆のようなボタンの鼻はときどきぴかりと光を反射させました。茶色とベージュ色の中間のような色合いで、手触りも心地よく、買ったその日からそれはわたしの宝物になりました。
わたしは昔から眠ることがちょっぴり苦手だったものですから、抱きしめながら寝るのにちょうどよかったのです。ひとよりも小柄なわたしの体にカワウソのぬいぐるみはぴったりと収まって、わたしが成長して大きくなって眠るのが少し平気になってからもベッドから降りることはありませんでした。いつもにこにことわたしを見つめながら、深い深い眠りに落ちるわたしを静かに見守るのです。
ある日、学校から帰って部屋で宿題をしているときに、ピンポンと家のチャイムが鳴り響いたのが聞こえたので玄関の外に出てみますと、髪をおさげにした制服姿の女の子がそこに立っていました。幼なじみのリンちゃんです。リンちゃんのそばかすの付いたお顔はわたしの密かなお気に入りでした。
「おすそわけに来ましたよ」と白色の箱をこちらに差し出したのをわたしは丁寧に受け取って、「どうもありがとう」と返しました。「今日はどんなお品書きで」
「今日は洋梨のタルトと、モンブラン。あとチョコレートケーキ」
「チョコレートケーキ」
とわたしは思わず呟いてしまいました。リンちゃんのお家はこの町唯一のケーキ屋さんで、なかでもチョコレートケーキが抜群に美味しいのです。父親同士の仲がいいものですから、たまにこうやって売れ残ったケーキをおすそわけに来てくれるのでした。
「わあうれしい。わたしも妹も弟もみんなこれすきよ」
「失敗したものも入っているけれどね。じゃあね、また学校で」
と、リンちゃんは最後にぶっきらぼうに返事をしてさっさと帰ってしまいました。遠くなっていく背にわたしは目いっぱい手を振ったあと、家にあがって冷蔵庫に白い箱を仕舞いました。ちらりと中身を覗いてみた限り、チョコレートケーキはみっつ入っていました。
その日の夜、家族で夕食を囲んでいるときにわたしは言いました。
「お母さん、今日またリンちゃんのお家からおすそわけが来ましたよ」
「ほんとう?チョコレートケーキ、ある?」
「ぼくのぶんも、ある?」
先に返事をしたのは五つ下の妹と七つ下の弟でした。わたしは「あるよ。お母さんのすきなモンブランも、あるよ」と自慢げに答えました。
小さな歓声を上げる妹たちに、お母さんは少し呆れ顔を浮かべながら、「こんな贅沢、他のお家ではないんですからね」と小さく釘を刺しました。そしてわたしの方に向き直って、「さっそくお返ししなくちゃね。庭のお野菜たちがそろそろ収穫どきだから、明日学校に持っていきなさい」と言いました。
九月の初めごろで、まだ日が落ちきる前でしたので、今日のうちに収穫してしまおうと食器を片したあとわたしはすぐに庭に出ました。
トマトと、ピーマンと、ナス。シシトウも、もうそろそろ終わりかしら、とひとりごとを言いながら園芸ばさみで出来のいい野菜を収穫し、つぎつぎに籠に入れていきました。
父方の祖父が、ここの周辺の土地を広く持っていましたので、庭といいつつここはほとんど畑のような場所でした。小学校の頃、雪が積もった日なんかには近所に住んでる十人ほどのお友達がここへ来て集まって、一緒に雪合戦をして遊んだものです。もちろんわたしも、妹や弟も、リンちゃんも居ました。けれどみんながあまりにも畑を無秩序に踏み荒らしてしまうので、「そこにキャベツが埋まっているから、そうっとね」と、わたしはときどき注意をしたりしました。それが気に入らなかったのでしょう、リンちゃんを含めた十人の作った雪玉がいっせいにわたしに向かって飛んできたりもしました。十歳くらいまでのわたしはとりわけ身長も低く小柄だったものですから、こうしたさまざまな攻撃の標的となることがよくありました。
リンちゃんが投げつける雪玉には茶色い土がよく混じっていたことを思い出し、わたしはシシトウを収穫していた手を止め、しばらくそこでうずくまっていました。するとしだいにおしりが重くなって地面とぴったりくっつき、けれどそんなのはおかまいなしにわたしは物思いに耽っていました。
どれくらいそうしていたのでしょう、気づくと辺りは真っ暗になっていて、台所の勝手口から「そろそろお上がりなさい」とお母さんが顔を覗かせて言いました。はっと、我に返り、わたしは野菜の入った籠を持って、土で汚れたズボンをぱんぱんと払ったあと、急いで中に戻りました。
台所の棚から取り出した新聞紙で野菜を包んでいると、居間でチョコレートケーキを頬張っていた妹が「姉さんはいらないの」と催促してきましたので、「今日はもうおなかいっぱいなの」と返事をしました。弟は早々に食べ終えてしまったようでテレビを観ていました。残りのひとつは冷蔵庫に仕舞っておいてね、と付け足したのを妹と弟が聞こえていたかは定かではありませんでした。
お風呂と寝る支度を済ませ、明日の荷物をかばんにつめてから、わたしは半ば興奮ぎみにベッドに入りました。目線の先にはいつものように微笑んだカワウソがいて、わたしはそれを目いっぱい抱きしめました。強く強く、抱きしめました。
そしていつものように、眠る前にそのぬいぐるみの頭をひと撫でして、他のウサギやイヌのぬいぐるみなんかの頭も平等に撫でてから、けれどやっぱりカワウソだけが特別だったので、布団の中でカワウソの頭をもうひと撫でして眠るのでした。
きっとこれは夢であろういうことに気がついた時点で、わたしはすでに呼吸がほとんどできなくなっていました。
夢の中のわたしはリンちゃんのお家に居て、ふたりで一緒にケーキを頬張っていました。周りにはわたしの両親とリンちゃんの両親がにこにこしながらわたしたちを見守っているのです。かるい口当たりのショートケーキがなぜだか甘ったるく、かと思えばまったく味のしないただの台所のスポンジに変わり、「大事な服を汚してはいけないよ」というお母さんの声がいやに耳に木霊します。小学校の卒業式の日だ、とわたしは突然思い出しました。するととたんに口のなかに含んでいたケーキが土に変わり、茶色の土に変わり、指についた生クリームは雪に変わります。うっと、喉が詰まり、じゃりじゃりとした食感に気持ちの悪さを覚えました。となりで大人しくケーキを食べていたはずのリンちゃんはフォークをスコップに持ち替えて、こちらを睨んでいます。わたしがなにか言葉を発しようとする度にわたしの口から土がこぼれ落ちて、ぼろぼろと落ちて、洋服や絨毯を汚して、いつの間にかわたしは呼吸ができなくなっていました。
わあっと大きな声を出してわたしは飛び起きました。飛び起きたはいいものの、部屋も窓の外もまだ真っ暗でした。頭の中も視界もぼやけたままで、額にも背中にも汗がびっしょりと滴って、網戸から微かに来る夜の風がそれを乾かすうちに、わたしはだんだんと夢の輪郭を思い出していました。
気味の悪い夢を見た、と思いました。夜中に目が覚めるのはとても久しぶりなことでした。
勢いよく飛び起きたせいでカワウソのぬいぐるみは足元に転がっており、わたしはそれをひょいと膝の上に乗せて、しばらく見つめ合っていました。
しだいに目が暗闇に慣れて、枕元の目覚まし時計が午前の三時すぎを指していることを確認しました。けれどもいっこうに鳴り止まない動悸によけいに不安に思いながら、持っていたカワウソに視線を戻すと、あることに気がつきました。
ええ、なんてことないものです。カワウソの丸くふくらんだ口元に見慣れない、黒っぽい、茶色っぽい小さななにかがくっついていたのです。黒子のようにも見えました。わたしはそれをじっと見つめました。お馴染みの、可愛らしい小さなカワウソのお顔が、この時ばかりはなんだか不思議に思えて仕方がないのでした。そうして、
「知らぬ間にチョコレートケーキを食べていたの」
とわたしが訊いてみますと、けれどそれはぬいぐるみなのでわたしの質問に答えることはありません。わたしは質問を変えてみました。
「もしかして、わたしの夢を食べちゃったの」
やっぱりぬいぐるみなので口は開きません。でも、きっとそうに違いないのでしょう、とわたしは悟りました。
中国から伝わる伝説に、獏という悪夢を食べてくれる動物がいることをわたしは知っていたのです。わたしがたった今悪い夢から覚めることができましたのも、獏がそれを食べたからに違いないのです。
「おまえ、じつは獏だったんでないの」
その黒子のような茶色っぽい点が、今わたしの足元にかけてある古びたブランケットの糸くずであることは容易に想像がつきました。けれどもわたしのその質問にカワウソが否定することはありませんでした。
わたしは眠る前と同じように、カワウソのぬいぐるみを強く抱きしめました。抱きしめながら、涙が溢れ出てきてしまって、「悪い夢を見た。悪い夢を見た」と繰り返し小さく叫び続けました。まるで小さな子供のように叫び続けました。とめどなく溢れ出てくる涙に、ついに嫌気が差してきたものですから、わたしはそれを拭ってふたたび布団の中に入りました。
ふうふうと深呼吸を繰り返して、ずいぶんと心を落ち着かせたあと、カワウソの頭をひょこりと布団からはみ出して、もう一度語りかけます。
「悪い夢を食べてくれたのね。どうもありがとう」
どんな味がしたの?と心の中で訊ねて、わたしはカワウソの頭を撫でました。買ったときよりかはもうずいぶんと毛並みが落ち着いて、色も褪せてしまっていました。
「けれどもね、わたしはリンちゃんのそばかすの付いたお顔がすきなんだよ。リンちゃんのお顔も、リンちゃんのお父さんが作るチョコレートケーキもすきなんだよ」
カワウソはいつものように優しい微笑みを返したので、わたしはそれを肯定ととらえることにしました。出会った頃よりもずっと小さくなってしまったそれを抱きしめながら、命なき綿布が、たしかに小さな熱を持っていることを感じました。