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【世界考察18】教育とは何か

教育とは何か。一般的には、個人の個性を尊重しながら成長をサポートし、個の自己実現を通して社会に参画、貢献できる人材を育て上げること、とでも言えばいいのか。しかしこちらは一般論には全く興味がない。一般論はそこらに転がっているし、教育学の本を読めば、教育とは何か、書いている(はずである。読んだことはない。教育学とは何なのか)。一般論を調べて語っても何も新情報は生まれない。調べている時点で新情報ではない。なのでここでは自説を述べる。

青は藍より出でて藍より青しという言葉がある。出藍の誉れとも言われる。師匠が弟子を越えていくことを指す言葉だ。これほど本質をつく言葉はない。教育の本質は師弟関係だ。浅い関係では何も新しいものは生まれない。せいぜい、元々持っていた何かが開花するくらいである。それは教育のおかげではない。教育でもないし本質でもない。単にオートで育っているだけだ。セルフオート育成は教育ではない。セルフ育成できるように持っていっているなら、話は別だが、勝手に育ったことを教育とは呼ばない。わざわざ自分で言うかどうかは別として、わしが育てた、が教育である。わしが育ててないのに、わしが育てた、も教育ではない。

ということで、教育の本質とは出藍である。師匠は弟子を自分より遥かに優れた存在へ育て上げなければならない。古来からの師匠の役割である。少なくとも、ひとりでもそのような存在を教育できたとしたら、過去を乗り越えたと言える。人類は過去を乗り越え続けて文明を築いてきたのだ。人類が進歩し続けるための営みが、教育とも言える。それが出来ないなら、師匠としては失敗している。青が藍より青くなかったら終わりだ。世の中には自分を越えていこうとすることに、蓋をする人すらいる気がするが、そうなったら余計に終わりである。過去は乗り越えられない。いつまでも乗り越える必要があるのか、それはそれで議論の余地はある。そのような時代もAIと共に終わるのかもしれない。しかし今回は触れない。

出藍が教育の本質だとして、では何をもって越えたと言えばいいのか。難しいことはない。師匠が越えたと思えば越えている。それだけである。教育者であるなら、それくらいの目はもっているはずである。何を持ってなど定義する必要もない。自分の中のコアと、弟子のコアを比較して、明らかに越えていると思えば、それで終わりだ。あるいは、将来こいつは必ず自分を越えていくという確信でもいい。確信を持てば越えたも同じである。

師匠がヘボだったらすぐ越えられるじゃん、という考えもあるが、出藍の意識があれば、必然的に師匠の方も、自分が高まっていくものである。教育を通して自分も教育される。

自分の言葉を綴るとなかなかまとまりがない。出藍の意識と共にお互いを高め合う、最後に弟子は師匠を超えていく。それが教育だ、ということで今回は締め括っておく。



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