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ニッポンのアウフタクト

ある方の曰く、「なぜ日本人は付点のリズムやアウフタクトがうまくないのか」「欧米人は4|1と捉えているのに、日本人は1・・4と捉えている」と。この手の問題提起はよく見かけるし、それに対して「日本の民謡、演歌に見られる頭打ち重視の影響」と答える光景もまた、けっこう見かける。でも僕はちょっとモノを申したい。仮にそれが起きるなら、日本人が「西洋音楽」を弾くときに限り起きるのであると。

津軽追分から五木の子守唄、炭坑節に至るまで、頭拍から始まる民謡なんてあんまりないですし(だから日本語が頭打ちというのも嘘。僕は作曲家としてそれを知っている)演歌にしてもそう。都はるみ『アンコ椿は恋の花』から実例を。どうですか、はるみちゃんの歌う「ああん、ああん」の付点のリズムは。どこにそんな問題がありますか。

それに、アウフタクト「あん」から「こー」の、強拍に来る「こー」の音程をあえてずらす、いわゆるコブシ。このコブシの音程が本来あるべき音程に至るや否や「だよりー」と続く。つまりこのメロディの力点は強拍になく、次のアウフタクト「だよりー」にあると分かる。演歌が頭打ちの音楽なんてとんでもない。むしろ皆無。常にアウフタクトで回るもの。みんな固定観念で決めてかかりすぎ、ナメすぎじゃないですか。

ちなみに僕のはるみちゃん好きは父からの影響です。

では、なぜ「西洋音楽」のときだけ起きるかというに、みんな根が真面目だから真面目にお勉強してお約束ごとを覚えるときに耳をアタマで押さえつけちゃうのでしょう。必要なのは、言語化されたものを再身体化するプロセスですが、これは必然的に個人的な体験となるので、誰しも通る道と言ったらおしまいですけど。教育にもできることはあるかもしれませんね。でもなんだろ。言葉を選ぶことと、良い意味で放ったらかすこと…でしょうかね。

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