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いきてるひとの展覧会

たぶん
上野の「みはし」に行くことを目的に
そのついでに
ピーター・ドイグ展へ行こうとしていた4年前、
何故か上野のどこかで開催されていると思い込んでいた
そのピーター・ドイグ展は竹橋で開催されていて
直前に気が付いてああよかった
と無事展覧会にも行き、さらに「みはし」八重洲地下街店
に立ち寄った時まだ小4だった息子は

この絵を描いた人まだ生きてるんだ・・・


死んでいない人の展覧会もあることに
初めて気が付き、驚き
更にその頃術後1年経っていなかった私には

ママはね、殺しても死なないタイプだよね

というようなことを言っては
長生きしてね
ということを可愛らしく祈ってくれたり
そう思っていることを私に伝えてくれたりしていた

ということを
先ほどfacebook の過去からのお知らせで知りました。

傍からはどう見えていたか全く分かりませんが
若い頃は
楽しいことも多いような気がするけれどそれ以上に
生きていることがしんどくてしんどくてその時は
こんなに長く
生きている自分のことなど全く想像出来ませんでしたが

50を目前にした今は

楽しいばかりではないけれど
そのことすらも楽しいと思える

(という程度の苦労しかないとも言える。
 実際に大地震に見舞われたら、それも80歳だったりしたら
 どうなるのか、ちょっと想像出来ない。
 でも想像出来ないことはしても仕方のないことでもある。
 同様に歳をとったときの認知機能がどうなっているか
 についても考えても仕方のないことである。
 ああはなりたくない、と鬱々と考えるよりは
 楽しい!と思って日々過ごす、それで良いと思う)

生きているってなんだかいいな
とってもいいな

と、ドラえもんの唄のような調子で思います。

先日、
7歳年上の夫の腎臓の数値がアレなことが分かりました。
という事実よりも何よりも
あまりに色々なことをやらかし続けるので
そしてその自覚が全くないようなので

人生で最も思うようにならないことは「夫」

のような気もする昨今ですが
選んだのは自分ですし、
きっと同じことを相手も思っていることでしょう。
とはいえ
結婚して15年かけてすり合わせてきたこと
(しょうこともないことです。
 例えば、お風呂の後はちゃんと換気扇を「強」で回してね、等々
 「私が」最大限に基準をゆるくして
 最小限必要だと思っている生活上の約束事)

が最近、突然なかったことになっていたりすることに驚き

ちょっと・・・
アレって年齢的な衰えなのかな
勘弁してほしいなあ

と思ったりしていたのですが
息子によれば

いや、パパは昔からああだったよ

それが悪いという意味ではなくて
そういうスペックだと思えばいいのでは?

というアドバイスまでしてくれる、
そういう伸び盛りの中2男子の息子のいる生活は
楽しくて楽しくて
生きている甲斐とかそういうことよりも何よりも
ただもう楽しくて
子供はもうすぐ離れてゆくものですし
逆に、離れていってくれなければ困るので
近い将来形は変わるにしても
先のことは先のこと、
今は
今を思う存分楽しみたいと思います。

というか
スペックね・・・
「そういうものだと思うしかない」
とは思っていたけれど
確かにそういうスペックだと思えば
意外と腹も立たなくなるのが不思議、
私の考え方は硬直してきているのがつまらない、
ええ!?という驚きも楽しいので
若い友達がもっと欲しいな、と最近思う。