幸せになるために生きる
今、考えるとかなり鬱陶しいやつだと思うが、21歳のある時期、会う人会う人に「あなたは何のために生きているのか」と尋ねていた。
それは今思えば、「はしか」のようなものだった。21歳の大学生といえば未来に対し、何でもできる全能感を持っている時期である。もちろんそんな全能感は社会に出た途端、(それが高ければ高いほど)ペシャンコにされるわけだが。
その頃のぼくは、ペシャンコになる未来など想像だにしていなかった。かといって将来を考えて資格を取ったり、勉学に励んだりといったことはまったくなかった。弱いくせに麻雀、パチンコ、競馬とギャンブルばかりやっていたから絶えずお金がなく、その反面、時間はあり余っていた。
それでも周りから、「こいつはフラフラしているようで、なかなか難しいことを考えているんだな」と一目置かれたい虚栄心はある。そんな感情の稚拙なアウトプットとして、会う会う人に「あなたは何のために生きているのか」と聞いていたのである。
そういう不純な動機に基づいた「痛い」質問であっても、ほとんどの人はきちんと答えてくれた。そして多くの回答は、その人が描く具体的な未来へと繋がっていた。
例えば「入りたい企業(もしくはやりたい職種)があり、それに就けるよう努力している」とか。「夢や目標があり、それを叶える方法を探している」とか。
傍目にはぼくより充実した時間を過ごしていそうな、20代前半の若者ばかりに聞いていたのである。希望と不安とを7:3で配合したキラキラした答えが来るのは予想していたし、ぼく自身それを望んでもいた。自分が何をやりたいのか皆目わからなかったぼくは、たくさんの人の話を聞いて「夢のサンプル」を収集してもいたのだ。
そうして尋ね回った中に一人、不思議な回答をした人物がいた。それから数十年経った今でも、その答えをよく覚えている。その彼の回答を境に、この馬鹿げた質問をするのをやめてしまったほどだ。
大倉山の深夜のロイヤルホストで、乾いた鉄板の上にわずかに残ったフライドポテトの残骸を口に運びながら、彼はつぶやくようにこう答えた。
「ぼくは幸せになるために生きているかな」
幸せになるために生きる。
なんだ、そのぼんやりした答えは。
もちろん当時のぼくは(おそらく)不幸せになりたいなど思っていなかったから、それがわけのわからない回答とまでは思わなかった。確かに大きな視点で見れば、誰しもが幸せになるために生きている。仮に「不幸せになりたい」と願う人がいたとしても、「不幸せになって得られる状況」がその人にとっては幸せなのだ。
そうはいっても、何しろ20代前半の血気盛んな若者である。そのエネルギーに満ちた体から「幸せになるために生きる」という言葉が出てくるのは、いじらしいを越えて、不思議な印象すら持った。
彼との会話から、文字通り(本当に文字通り)あっという間に数十年が過ぎ、その言葉は50代を迎えた今なお、ぼくの心にじっとうずくまっている。手に取り、その重みを感じられるくらいの存在感を持って。
◇
なぜ今でもその言葉をよく覚えているかと言えば、そもそも「幸せになっている状態」がよくわからなかったからだ。嬉しいや、楽しい、むかつく、悲しい、それらはわかりやすい心の状態だ。「顔の表情で怒りを表現してください」と言われたら、何とかできそうである。しかし、幸せとは……?
それは心の状態をさすものなのか、本人を取り巻く環境なのか。過程なのか、思い出なのか。それとも人から「あの人は幸せそうでいいなあ」そう思われたい、ある種の欲望なのか。もしくは、それらいくつかの組み合わせなのだろうか。
その状態がクリアに認識できていないと、目指しようがない。解けないパズルを、ひょいと手渡されたような気分になっていたのである。
例えばこれを読んでいるあなたに、「幸せな状態をイメージしてください」と尋ねたとしよう。どのような光景を想像するだろう? ひょっとしてある一定数の人たち(100人いれば8人くらい)は、以下のようなシチュエーションを思い浮かべるかもしれない。
場所は、明るい部屋の中。リビングだ。夫婦がいて、子どもが2人いる。4人家族である。小綺麗でぴかぴかした2階建ての新築住宅に住んでおり、低燃費が売りの真新しい国産車がガレージの4辺に均等な余白を残し停まっている。
晴れた休日には、その車で家族4人ドライブ。行きの道中では、後部座席に座った子どもたちが騒いでいる。目的地は海の近くの公園だ。青空の下、よく手入れされた芝生の広場で、子どもたちがボール遊びをしている。その姿を夫婦二人が笑いながら見つめている。
陽が暮れ帰りの車の後部座席では、子どもたちがお互いもたれかかって居眠りをしている。その姿を助手席の夫もしくは妻が振り返って微笑むと、画面が車全体をとらえた俯瞰にパッと切り替わる。夕闇の帰り道、ヘッドライトを灯した車は、自分たちの家へ続く一本道を軽快に走り去っていく。そこで商品紹介のナレーションが入る。
そう、これは広告のイメージだ。家を建てさせたり、自動車を買わせるために拵えたイメージ。そのイメージは消費者へ、遠回しにこう訴える。「ほら幸せそうでしょう。あなたもこんなふうに幸せになりたくないですか。○○を買えば、こういう幸せな暮らしが手に入りますよ」と。その中には直接的な表現にならないよう細心の注意を払いながら、購買意欲を喚起するメッセージが巧妙に入れられている。
このイメージに消費意欲が喚起され家や車を購入し、実際、幸福を感じる人はたくさんいる。その人たちにとって「幸せになるために生きる」とは、それらの生活を叶え、維持するだけの財力を持つことになるだろう。
一方、「広告に乗せられてしまった」と、幸福さはおろか後悔さえする人もいるかもしれない。幸福を感じないとしたら、それはある意味、当然のことである。広告とは自分とは無関係の赤の他人がこしらえた、空虚なイメージだ。しかも幻想を抱かせるよう、表面を分厚くデコレーションしている。
他人が提供するイメージをもとに行動するのは、思考をショートカットする行為である。洋服屋の「ぴったりですよ。本当によく似合います〜」の言葉を真に受け高い洋服を買っても、家に帰り鏡の前で合わせてみるとなんかしっくりこない。自分で選んだ気がしない。それと同じだ。
思考をショートカットしても、良い結果は得られない。もし得られたとしてもそれはたまたまラッキーだったのか、もしくは「これは自分が望んでいるものなのだ」と言い聞かせているに過ぎない。
そう考えると、21歳のときの彼の言葉は正しい。
幸せになるために生きる。
大きな視点で見れば、人は皆、幸せになるために生きている。そして幸せとは両手で器を作って天を仰いでいるだけで、自然と降り積もるものではない。「そうなろう」と意識し、考え、行動しないと、現実化しないものなのだ。
◇
話が抽象的になりすぎている。自分の手に負えるくらいに、小さく具体的にしてみよう。
最近、『北欧、暮らしの道具店』のモーニングルーティンを見るのにハマっている。モーニングルーティンとは文字通り、朝起きてからの自分の中での決まりごとだ。
モーニングルーティンは興味深い。似ているようで、一人一人のそれは違っている。共通しているのは、朝起きてから決まっている毎日の習慣があり、その一つ一つの行動に明確な理由があること。
動画に登場する人々の中には、配偶者や子どもと一緒に暮らす人もいる。朝起きて掃除洗濯など生きるために必要な家事を手早くこなし、さらに子どもたちの食事も作る。保育園へ送り届けにも行く。仕事のある人は、時間が来ると出勤しなくてはならない。
朝は脳がクリアで体力も満タン、もっともクリエイティブを発揮できる時間でありながら、「ここで自由な時間は終わり」と明確な線が引かれてもいる。朝は有限で貴重なものなのだ。1日でもっとも濃密な時間といっても良い。
動画内に登場する人たちは、その朝の貴重な時間の中でさまざまな習慣を澱みなくこなしていく。濃縮した時間を自由自在に泳ぐ、イルカのように。この動画を見ているとモーニングルーティンは、「幸せになるために生きる」を具現化しているように思えてくる。
おそらく動画の画面に映っている人もこの文章を読んでいる人も、今日の朝と昨日の朝とではほぼ同じことをしているだろう。しかし今日の朝と10年前の朝とでは、モーニングルーティンがまったく異なっているはずだ。
今日の朝と昨日の朝は、まったく同じように見えてほんの少しのズレがある。そのズレは「この方が、より生活が良くなるのではないか」と、その都度、修正を加えたものだ。わずかな修正は連続した日々では変化を感じないが、大きな時間軸で見るとまるで別人のように異なってくる。
毎朝、限られた時間を使い、同じことを繰り返しながら、少しでも生活がより良くなるためにアップデートもしている。昨日よりも少しでも余裕を持ち、心地よい時間を過ごせるように。それは「幸せになるため」の行動そのものだろう。
ウェブで「幸せ(スペース)方法」などで検索をかければ、「【2023年最新】あなたが確実に幸せになる10の方法」といったタイトルが目に飛び込んで来るかもしれない。しかし幸せとは、ハウツー化できるものではない。国や企業から見本を提示され、それで満足できるものでもない。生きる人それぞれが、「幸せになろう」と意識し、考え、独自の行動をしてこそ手に入るものなのだ。
なるほど、「幸せになるために生きる」は、難しいことではなかった。誰もが大きな視点ではそう考え、行動し、日々磨き上げていることなのである。動画でモーニングルーティンを披露している、一人一人のように。
◇
動画のモーニングルーティンを見ていたら、そんなことを不意に思ったので文章にしたためた。書き終えてからタイトルをどうしようか考え、彼の言葉そのままに、「幸せになるために生きる」とした。
大倉山のロイヤルホストで話をした彼とは、それから一年ほどして連絡を取らなくなった。仲違いしたわけではない。「鬱陶しい質問をしてくるやつだ」と嫌われたわけでも、おそらくないだろう。人生のある地点で偶然、交わっただけで、時の濁流に飲まれその姿はやがて視界から消えていった。
だから彼が今、どのように「幸せになるために生きている」かはわからない。ただタイトルを彼の言葉にすることで、偶然にもこの文章を見つけることをほんの少し期待している。「西出くんは、相変わらずだね」と懐かしんでもらえれば嬉しく思う。
さて、明日もまた、幸せになるために生きようじゃないか。目覚めたあとは、まずモーニングルーティンから。
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