詳しいことは知りませんが 【3/5】
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そこから20分ほどして、誰かが部屋に入ってきた。
ジュースと煙草のせいで、ますます視覚以外の感覚が鋭くなってたのか、ほんの微かな匂いだけで、それがさっきのおじいさんだと判った。
それはほんの微かな、ナフタリンの匂いだった。
おじいさんは無愛想で寡黙だけども、いまこの部屋に一緒にいる、訳知り顔(が見えたわけじゃないけど)のアンニュイ女にいい加減うんざりしてたから、彼が入ってきてなんかホッとしたね。
おじいさんはあたしの前に立って、言った。
「お待たせしました、準備が出来ましたのでご案内します」
手を取られた。
「まずあなたから」あたしは抵抗無く立ち上がった。「コートはお預かりします」
コートをおじいさんの声の方に差し出すと、女のけだるい声が腰の左2メートルくらいのところから聞こえた。
「あはは、がんばってね」
部屋出る前に、舌出してやりたかったね。
どうせ向こうも見えないはずなんだからさ。
あたしはおじさんに手を引かれて、コンクリートの廊下を歩いた。
安物のパンプスの踵が、カツーンカツーンと音を立てた。
おじいさんは足音を立てなかった。
しばらく歩いてドアを潜ると、何か暖かい部屋に出た。
「着きました」おじいさんが静かに言う「いいですか、お行儀よくお願いしますよ」
人の気配。
それもたくさんの人の気配と、そのざわめき。
全部、男の声だった。
グラスの音や笑い声や皿にフォークを載せる音、ライターで煙草に火をつける音などが聞こえた。
まあ、よっぽどの事が無い限り、その場でパーティが催されていることは明らかだったね。
それも宴会じゃなくって、あくまでパーティって感じね。
あたし、ほら昔、コンパニオンのバイトしてたからさ、おっさん達がやる立食パーティって結構見てきたんだけど、そんなのとは全然違ってたね。
ホラ、よくあるじゃん、ホテルの宴会場借り切って、立食パーティ風にしてんのに、ビール瓶とコップ持って人のコップに酒注ぎに廻ったりしてさ。
そういう勘違いのビンボくさいパーティ。
そのへんの居酒屋でやったら? みたいなやつ。
ぜんぜんそうじゃないの。音で聞く限りは。
話し声も静かだし、笑い声も聞こえるけど、どこかひそひそしてんのよね。
不気味といえば、不気味だったけど。
その部屋にもまた、床に分厚いふかふかの絨毯が敷いてある。
おじいさんに手を引かれるままに歩くと、まるで、雲の上を歩いているみたいだった。
人の波の間を歩いて、なんか部屋をぐるぐる廻っているみたいだったな。
視線をはっきりと感じた。
その場にいる、おびただしい人たち全員の。
ぜんせん、心地よい視線じゃなかったけどね。
ほんと、“絡みつく視線”っていうの?
そんな感じだった。
なんか、ねっとりとした粘液のプールの中を歩いてるみたい。
でも、下卑た笑いとか、下品な囃し声とか、そういうのはぜんぜんないのね。
その代わり、あたしが通り過ぎた後で、背後で男達が何かヒソヒソ話したり、クスクス忍び笑いしてたりするのが聞こえる。
なーんだか、相変わらず頭の中はぼんやりしてたんだけど、気持ち悪くなっちゃってさ、表情が引きつってたのかも知んないね。
「飲まれますか?」
あたしをエスコートしてるおじいさんが聞いた。
「うん……いや、ええ……はい」
ほっそりとしたシャンパングラス、みたいなものを手渡された。
見えなかったけど、とてもガラスが薄くて、高級そうな感じ。
飲んでみてびっくりしたよ。
それがどれくらい上等なスパークリングワインなのかシャンパン知らないけど、これまで飲んできたシャンパンがいかに安物だったかを思い知らされたね。
香りも味も泡の感触も、あたしの舌や口のなかをやさしく溶かしちゃうみたいで。
多分、それには何の混ぜものもしてなかったんだろうけど。
自分でも浅ましいと思うけど、あっという間に飲んじゃう。
と、おじいさんは空になったグラスをあたしから受け取って、また新しいグラスを手渡した。
くすくす笑いと囁きの中を、多分何周もしたんだろうね。
ほんとうにいじましいけど、4杯くらい飲んじゃったよ。
ダメだね、そんな下品なことしてちゃ。
でも、それで少し酔ったのと、最初に飲まされたジュースの混ぜモノと、ご禁制の煙草と、足の裏に優しく伝わってくるふわふわの絨毯の感触のせいで、さらに現実感と時間感覚が無くなっちゃってさ……ほんと、ヘンな気分だったな。
いつの間に始まったのかしらないけど、同じ部屋で、バンドの生演奏が始まっていた。
なんだか暗い、暗い、くらああい感じのジャズだったな。
ベースの音がとても低くて、ピアノの音もぜんぜん自己主張がなかった。
ドラムは囁くみたいでさ。
あんな陰気な曲はこれまで聴いたことがなかったな。
同じリフレインが何度も何度も続いて、ますますあたしは時間の感覚が無くしたよ。
いつの間に始まったのかわからない音楽が終わっても、拍手はなかった。
ヒソヒソ、クスクスと、同じ部屋に居る男たちは囁き合うだけ。
バンドも、やりがいがないだろうって思ったね。
でも誰かがマイクの前に立つ音がすると、会場からヒソヒソ、クスクスが消え、あたりがしんと静まり返った。
エスコートのおじいさんが立ち止まったので、あたしも立ち止まった。
静かな男の声がした。
「メリークリスマス(数名からメリークリスマスと返事)…………本日は皆様、暮れののお忙しい中ご来場いただき、誠にありがとうございます。さて、今夜はクリスマス…………恒例のこの日を愉しみに待つことで、この1年を過ごされた方も多いのではないでしょうか(一部でクスクス笑い)…………みなさんにもわたくしにも人生はたったの一度…………陽の当たる世界だけしか知らぬ人々の人生と、陽の当たらぬこの世界を知る皆様とわたくしの人生との間には、動物と人間を分かつほどの(一部でクスクス笑い)断絶が存在することは言うまでもありません。…………」
うっわー、と思った。
すげーヤな感じ。
「知らぬことは即ち不幸なことではありますが、ある意味この世界を知らぬ彼らは、皆様よりははるかに幸運であるとも言えます…………何故なら、その誠実ではあるが退屈な人生を送るうえで、まるで自分たちの知らぬ世界……………理想と現実が美しく調和する世界、そしてほんとうに自分が求めるものを得ることができる世界がどこかにある、そしていつの日か、自分はそれに辿り着くはずだ………という儚いけれども幸せな夢を見ることができるからです…………この世界を知る皆様は、もはやそんなささやかな夢を見ることはできないでしょう?(一部でクスクス笑い・拍手)」
なにそれ。
バカじゃねーの、とは思ったけど、もちろん言わなかった。
「…………それを知る我々は、それ以上の夢を見ることができないという点において、陽の当たる世界に住む友人達よりは不運なのです。彼らはその人生を終えた後、このような世界を知らずに済ませた誠実で退屈な人生を評価され、天国への入国を許可されるでしょう…………そしてそこで、自分の理想の世界を得るのです。人生を思うさま愉しみ尽くした我々に、恐らく天国への入国は許可されないでしょう(一部でクスクス笑い)。しかしわたしは個人的に……天国のようなところに、今わたしたち共有しているような愉しみが用意されているとはとても思えません(一部でクスクス笑い)……そして地獄へ堕とされた我々は気付くのではないでしょうか…………天国よりも地獄のほうが我々にとって、魅力的な世界であるということを…………そして我々にとっての地獄は、まさに理想の世界であることを……(一部でクスクス笑い・拍手)」
………とかなんだかそんなことを男はしゃべってた。
ぜんぜんいい感じはしなかったな。
さっき待合室に居た女みたいに、わけのわからないことで訳知り顔をして人を見下すような傲慢さが、言葉の端々に表れてたね。
あたしはイヤーな気分になった。
けど、まあ50万円だからね。それを思うと我慢できないほどじゃない。
男が続けた。
「それでは皆様、上映の準備が出来ましたので、隣の劇場に移動していただけますでしょうか」
……そういえばあの鼻持ちならない女が、映画を観るとか言ってたな、とあたしは思い出した。
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その地下奥深くにある、誰も知らない“映画館”の座席は、とても座り心地が良かった。
しっかしどこを歩いてもふかふかの絨毯で、座った椅子もふかふかだからさ、あたしはなにかぬるい液体の中を泳いでるみたいな気分になった。
その映画館はそれほど広いところでもなさそうだった。
だいたいそのへんのシネコンのシアターくらいじゃないかな。
でもパーティに出席してた人全員は収容できるキャパはあったみたい。
劇場に入ってもヒソヒソ、クスクス言う囁きは消えなかったけれども、目隠しされた中でも部屋が暗くなったのがわかる頃には、皆はシンとし始めた。
その劇場では喫煙オッケーらしくて……さっきあたしが吸った特別な煙草の畳の匂いが充満していた。
ブザーの後、映画が始まった。
らしい。
だってあたし、見えないからね。
映画の最初の部分には、BGMはなかった。
何か食事をしているような、食器の音やナイフやフォークを使う音、食器をテーブルに置く音などが聞こえてきた。さらに耳を澄ますと、鳥の声なんかも聞こえてくる。
それが妙に長かった。
何なんだろうこの映画、って思ったね。
でも、世の中にはいろんな趣味の人が居るからなあ。
あたし野球とか全然見ないんだけどさ、うちのお父さんなんか、野球だったら何時間でも見続けられるみたい。
攻撃して、守備して、攻撃して、守備して、たまに点が入って、また攻撃して……ってその繰り返しでしょ?
一体何が面白いんだかわかんない。
それと同じで、人が食事するのを見てるだけで何時間も楽しめる人が居ても不思議じゃないよね。
でも、参ったなあとも思った。
これから、何時間もこの食事の音聞かされたらヤだなあ、と思った。
いくら50万もらえてもそれじゃあ確実に寝ちゃうよ。
やっぱ、寝ると怒られるのだろうか、と思っていると、どうやらシーンが代わったみたいだった。
さっきのバンドがそのまま演奏してるんじゃないかと思えるほど、暗く、暗く、暗く、くらあああく重たいジャズ。
食事の音より苦痛で、退屈だったな。
それも結構長く感じられてさ。
多分画面ではタイトルロールかなんかが流れてるんだろうけど、それにしても陰気な音楽だった。
なんだろう、この人たちは。
“暗くて退屈な映画同好会”かなんかだろうか。
と、思ってると、またシーンが代わったらしい。
「ここは寒いけど安全だよ」
男の声で、日本語だった。
「そう?」
と女の声。
それもかなり若いらしい、少女のような声……でも、どっかで聞いたことある声だ。
「安全なのことを考えたら、寒いなんて気にならないだろう?」
「べつに」
「やっぱりあのことを気にしてるのかい、昨日のこと」
なんか男のセリフは棒読みだった。
「ぜんぜん」
「なあ」
「なあに」
「気にしてるんだろ、昨日のこと」
「ぜんぜん」
……そんな感じで、会話は進み、男は棒読みを続け、女の方は「そう?」とか「さあ」とか「ぜんぜん」とか、ろくなセリフを吐かない。
まあ一応、ストーリーのある劇映画なんだろう。
でも……食事の音、陰気なジャズ。
そこにきてこの退屈な会話……と、もうかんべんしてって感じだった。
わたしがうとうとしはじめた時だった。
いつの間にかシーンが代わっていたらしい。
「ん……」女の、色っぽい声がした。「……ああっ……」
なんだ、結局エロか、とあたしは思った。
「……はっ……んっ………………くっ…………」しかし…なんか女の声は生々しかった「はっ……あ……やっ……ちょっと……だめっ……そ、そんなのっ……」
AVなんかとは少し違う。
妙なリアリティがその声にはあった。
それに……なんかその声、ますますどっかで聞いたなあ、と思ったんだ。
「だめ……だって…………や……………あっ…………はっ……」
女の声と一緒に、ぴちゃぴちゃ言う水音が聞こえた。
はあ、なんか、クンニとか、そのようなことをしてるんだろうな、とあたしは思った。
でもなんか、滑稽だったね。
いい歳をした大人がさんざんご託を並べたあと、しんと静まり返って、こんなエロ映画を観てるなんて。
だって、画面に何が映っているのかは見えないからわかんないけどさ、何が映っていようと、あたしは驚かなないね。
だって、人間がするいやらしいことには、限界があるもの。
そうでしょ?
少なくともその時点までは、あたしもそう思ってた。
でも……どんないやらしいことが映されていようと……ここまでもったいぶって地下に引きこもって観なくちゃいけないかあ??
あたしはだんだんあほらしくなって、また眠くなってきた。
と、その時だった。
「……えっ…………あ…………うそ…………なにそれっ!?」映画の中の女。明らかに調子が違う。「…………ねえ…………待ってっ…………そんなっ…………そんなのっ…………なに? なんなの? それ……」
女の声を震えていた。
「…………やだ……近づけないでっ…………お、お願いだから…………いやっ……ひっ」
何か妙なムードだった。劇場はますますしんとしてきたように思えたね。
「いやああっっ!」
女が悲鳴を上げた。
多分、耳を澄ましたら、劇場に居た男全員が、ゴクリと唾を飲み込むのが聞こえたかもね。
「や、やあっ!! や、やめてっ…………いやあっ…………あああっ!!!」
女の悲鳴だけじゃなかった。
なんだろう?
全く聞き覚えのない音がした。
「やだああっ…………やあっ…………やめてっ…………お願いっ………助けてっ…………」
機械の音じゃない。
何か生き物の音だ。
“ぴちょぴちょ”とか“ぬちょぬちょ”とか、そんな音。
そして時折、“フー”と溜息をつくような音。
その音が、だんだん大きくなってくる。
「やめてっ……聞いてないっ!…………こんなの聞いてないよっ!……ゼッタイやだっ……」
女はまるで昔のダチョウ倶楽部みたいに泣き声で言ってる。
「おねがい…………なんでもするからっ! …………それだけは、やめてっ! ……あっちにやってっ!」
一瞬、ふわりとあたしの心に不安が落ちてきた。
そういや、よく聞くじゃん。
秘密組織みたいなのが、女の子を痛めつけてレイプして殺すのをビデオに撮って、それを闇ルートに流してるっ……てウソなんだかホントなんだかよくわかんない話。
あたしはあんまり信じてなかったけど、何となくそれが頭に浮かんだんだよね。
あれ、その、なんていうの?
スナッフ?
そうそう、それそれ。
今あたしが目隠しされて観てる(?)のは、まさにソレなんじゃないかって。
思ったと同時に、全身に鳥肌が立ったね。
ってことは、この劇場に集まってる人間はみんな、その愛好者ってことで、そこに50万円をエサにホイホイついていったあたしは……って。
どうしよう、今更ながら泣きたくなるくらい不安になった。
でもなんだか、クスリとタバコと酒のせいかな。
どうやって逃げようか、とかそんなことは考えなかったんだよね。
なんだか、ああ、あたし、もうダメだ……っていきなり諦める、みたいな。
でも、ラッキーだったけど、そこに居た連中はそんな殺人狂じゃなかった。
それを上回るヘンな体験をすることになったんだけど、つくづく思うよ。
生きて帰って来れてよかったって。
そして…………
となりの席に座ってたやつの手が、いきなりあたしの太ももを掴んだ。