【官能時代小説】手 籠 め 侍 【2/12】
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闘いは始まった……と思った瞬間に、すべては終わっていた。
蜂屋百十郎は、打刀を抜いてさえいない。
少年武者は両手から血を流し、倒れ、喘いでいる。
彼の刀は、遠く離れた草原の地面に突き立っていた。
「……み、見たか慎之介……あの男の動きを……」
興奮を抑えきれない様子で、紫乃が上ずった声で言う。
「あ、姉上には見えたのですか? ……わたしには何が起こったのかさっぱり……」
「そなた、瞬きでもしたのか?」
「いえ、しっかりと見ておりました」
笠の下から紫乃が、横目で冷たい眼差しを慎之介にくれる。
「ふん……だからそなたは駄目なのじゃ」
しかし……そこから先に起こったことは、慎之介もその目ではっきりと見た。
百十郎はおびただしい血をながして倒れたままの少年武者に歩み寄ると、中腰になって、その顔を覗き込んだ。
そして少年の襷をほどくと、その手首を後ろ手に捻った。
「ああっ!」
あまりの激痛に、少年武者が悲愴な声をあげる。
突然、先ほどまで与太者まるだしの口調だった百十郎が、侍らしい口調で少年に言った。
「お主はもう、剣は振るえぬ……但し、本を読むことや桑を持つこと、包丁で魚を捌くこと、算盤を弾くことくらいはできよう……彦次郎……お主はまだ若い。そのうち、傷も癒える。よいか、二度と刀をとろうなど思うな」
そう言って、百十郎は少年の手首と足首をひとまとめにし、縛り上げてしまった。
「こっ……殺せっ! 殺さぬのなら、さらに十年掛かっても、おれは主の首を狙い歩くぞっ!」
勇ましい言葉だったが、その声には涙が混じっている。
それは遠くから伺っている慎之介にも聞き取れた。
「これからは、そんなつまらぬことに生きるな……自分のために生きよ。拙者が見せてやろう……お主がこれまでの十年、いかにその人生をつまらぬことに費やしてきたか、その証拠を」
そう言うと百十郎は、草の上に倒れたままの少年の母……白装束の年増にゆっくりと歩み寄っていく。
「よ、寄るなっ! それ以上近寄ったら許さぬっ……その目とその口、その鼻、ぜんぶ削ぎ落としてくれるっ……!」
「そうだよなあ……おめえにしてみりゃ、憎き仇はこのおれの顔か? ……たしかに昔は、あの小僧とそっくりだったろ?」
百十郎の言葉がまた、下卑た雲助のような調子に戻る。
白足袋裸足で草の上に尻餅をついたまま、後ずさる年増女。
裾がさらに乱れて、柏餅のようなもっちりとした太腿が、かなりきわどいところまで覗いている。
百十郎はゆっくりと女の上にしゃがむと、その細い肩を掴み、ぐっと強引に引き起こした。
「まっ……ま、またも妾を辱めるつもりかっ? ……し、舌を噛んでっ……」
剣の動き並に素早く、百十郎は女の紅唇を奪い、地面にねじ伏せた。
高台から覗いている慎之介には、その全てが見えた。
百十郎が女の襟元を開く。
白装束よりも白い肌に浮き上がる鎖骨と、たわわで形のよい乳房の谷間が覗いた。
血塗れの両手を後ろ手に縛られ、草のうえにうつ伏せで捨て置かれた少年武者が叫ぶ。
「は、母上っ!」
「み、見てはなりませんっ! ……目を瞑っているのですっ! ……こ、この男のする汚らわしいことを、見てはならぬっ!」
両肩を露にされ、左の乳房を掴み出されながら、母が息子に叫ぶ。
百十郎はなんとか胸を庇おうとする女の袂に手を進め、その股座を探る。
「なんだよ、もう大した荒れ模様じゃねえかよ……ええ? 華厳の滝みたいに吹き出してやがる……俺との馬鍬いがそんなに恋しかった、ってか? ……てかそもそも、そのおめえが言う“汚らわしいこと”ってのは、ふたりで樂むもんだろ?」
「や、やめるのですっ……や、やめっ……あっ……ああああっ!」
百十郎は女の半身を引き起こすと、その背後に周って両方の乳房をぐいと襟元から引きずり出し、捏ね回す。
傷つき、縛り上げられた少年武者に見せつけるように。
高台の茂みでそれを見ていた慎之介は、まっとうな義侠心に駆られていた。
「あ、姉上っ! 本気ですかっ? ……む、むしろわれらが、あの母子を助太刀すべきではないのですか?」
「こんなときだけ一人前のことを言うでないわっ!」紫乃が厳しく言い放つ。「第一、相手がそなたでは、あの若武者の二の舞よ!」
その姉の気迫に押されている間に、暫し時が経っていた。
改めて悲鳴と罵声の方向に目をやれば……
すでに帯を解かれ、完全に剥き開かれた女の裸体が慎之介の目を射る。
思わず、慎之介は生唾と息を飲んだ。
「は、はああっ……ああっ……だ、だめっ……」
遠目からでも、女の白い肢体が浮き出た汗でぬるり、と絖っているのがわかる。
「ほれ、ほれ、相変わらずいい声で謡っててくれるじゃねえか……ほれ、彦次郎、これが亭主の憎き仇に、むりやり手篭めにされてる貞淑な奥方様の姿に見えるかよ? ……ほれ、ちゃんと見てみろ」
百十郎は女を膝の上に載せ、、女の腿の内側に自らの膝を差し入れ、大きく開かせた。
女の白足袋につつまれた足先が、左右に投げ出される。
その中央、白い肌の中でひときわ目立つ黒い茂みの奥に、百十郎の右手が忍び込み、弄っていた。
左手では女の大ぶりでなめらかな乳房を、やわやわと丹念に捏ね、揉みしだいている。
「こ、殺せっ! ……我が子の前で、このような辱めを受けるくらいならっ……いっそこのままっ……」
「上の口ではそんなことを言いながら、えらく下の口は正直じゃねえか?……ええ? ほれ、坊主、お前の母ちゃんの乳首が、高く立ち上がってるのが見えるか?」
そう言って百十郎が、女の乳首をきつく抓り上げる。
「あぐうっ……くうっ……」
女がいやいやをするように顔を振り立てる。
鉢巻がほどけ、勝山髷がほどけ、豊かで艶やかな黒髪が宙を舞う。
「むかし、こういうふうに抓られると、おめえはいい声で啼いたもんだ……そうだろう? あの茶屋の二階ではいつも “抓ってっ! もっときつく抓ってっ! 百十郎どのっ!”って、甘い声で叫んだもんだよなあ……そして下の方はこうされるのが好きだったと覚えてるが、今でもそれは変わらねえかあ……?」
びくっ、と女の細い肩が震えるのが、慎之介の位置からも見て取れた。
これから何をされるのか悟った女が、怯えを見せたことを……女に触れたことさえない慎之介もはっきりと見てとった。
悲惨で非道な狼藉を目の前にしながら、這いつくばっているせいで……
草の上に押し付けた自らの幼い秘所が怪しく疼いていた。
なぜか気後れして隣りにいる姉を横目で見やると、姉は頬を真っ赤にして荒い息を吐き、この白昼の陵辱劇に見入っている。
「げ、下衆っ! 外道っ! やめっ、やめなさいっ! やめないと……」
なにか、慌てた様子で叫ぶ女。
「やめねえと、どうなるってんだあ?」
「は、母上!」
涙声で縛り上げられ、転がされた少年武者……彦次郎が叫ぶ。
百十郎は膝に力を込めて、女の脚をほぼ一文字に近いくらいに開かせた。
「やめ……て……お願い……む、息子の前で、あ、あれだけは……ご、後生ですっ……」
突然、ついさっきまで声を枯らして百十郎を罵っていた女の声が、弱々しくなった。
股座のさらに奥に、百十郎の指が滑り込んでいった。
「いや、おめえの身体は、“早うして、いま直ぐ”と言ってるみてえだがなあ……とくにこのむずむずと動いている菊座の、物欲しげな様子はどうなってんだい?」
慎之介にとって、百十郎のその言葉は衝撃的だった。
「き、菊座っ? ……あ、姉上、な、なにゆえ菊座などって……」
「しっ……黙っておれ!」
頬を真っ赤に染め、鼻息も荒い紫乃にたしなめられる。
百十郎がぐい、と女の股座に指を進める。
「うぐっ……く、くうっ!」
「ほれ、ほれ、どうじゃ? どうじゃ……」
女の裸身が激しく震えた。
百十郎の肩に後頭部を預ける形で、蝦のように身を反らせ、白足袋のつま先で地面を踏みしめ、腰を浮かせる。
女が自ら脚を開き、己の秘部を晒しているように、慎之介は見えた。
……目の前に転がる我が息子に、見せつけようとしているようにさえ。
その後、ぐったりと弛緩した女の身体を、百十郎は前に投げ出した。
「ほれ、這え……昔みてえに、犬の格好で這い蹲れ」
畜生の姿勢で這わされた女の白い背中が、夏の容赦ない陽の光に焼かれていくのが目に見えるようだった。
背後から、袴をおろし、褌を解いた百十郎がぐい、と後ろからのしかかる。
「ううううっ!」
女が唇を噛んで、顔を伏せた。
百十郎の腰が揺き出す。
その腰の動きは執拗で、激しく抽插を繰り返したかと思うと、捩じり、ときに動きを止めて女の呼吸をどんどん乱していく。
やがて……女の腰が、妖しく蕩き始めた。
「ふうんっ……うふっ……あううっ……見るでない彦次郎っ! 見るでないっ……目を閉じておれっ!」
撓わな尻を揉みしだかれ、乳房を掬い上げられ、捏ねられながら、なおも女は縛り上げられた息子に叫ぶ。
しかし、もう息子には目が合わせられない様子だ。
息子は、蹂躙される母の姿を食い入るように見ている。
「よく見とけよ彦次郎、こうしておまえが出来たんだ……さて、こうするとどんな正体を見せるか……ほれ、こうか? これを思い出すか?」
百十郎が女の尻の奥を探る。
女の背中が、怒った猫のようにぴん、と丸くなる。
「そ、それだけは、それだけは堪忍してっ……!」
「何言ってんだあ……お前は獣つながりのまま此処を指で責められるのが大好きだったろお?」
「あ、あああっ、い、いやっ……あああああああっ!」
(ま、また菊座を……)
慎之介は息を飲んだ。
尼寺に行ってしまった自分の母も、八代松右衛門……姉の言う『手篭め侍』にあのように辱められたのだろうか?
傍らで、頬を染めながらもその鬼畜の所業に魅入っている姉は、あんなおぞましい修羅場を、七つの歳で目にしたというのか?
「それ、それ、きゅうきゅう締め付けてきやがる……相変わらずの巾着門戸、おれの魔羅を食いちぎろうってえ魂胆か? それがおめえの仇討ちか? 一五年前、散々俺が手懐けたこの身体、懐かしさも相まって、たまんねえ味わいだ……」
「ああっ……ころ、殺してっ!! ご、後生ですっ! こ、こんな生き恥っ! このまま殺してっ……!」
「恥ならもう十分かいてるだろうが、ほれ、ガキの顔を見なよ……淫らな母上の牝の顔に、見とれてやがるぞ……どうだ坊主。お前の袴の中の魔羅も、一人前におっ立ってやがるのかあ?」
「この外道っ! 人非人っ! 母上、母上っ……き、気、気を確かにっ!」
少年は完全にべそをかいていた。
しかし母はもう、堪えることをやめてしまった。
ふっきれたように、女の身体ががっくりと弛緩する。
ここにきて、わざと揺きを止めて焦らしている様子の百十郎。
やがて……女の腰が遠慮がちに、くねり、くねりと畝ねりはじめる。
「ああああっ……そ、そこ、そこ、そこにて御座いますっ……百十郎どのっ……も、もっとっ……」
「もっと、もっと……もっと何をどうしてほしいってんだあ?」
「抉って……もっとそこを抉ってっ!!」
ついに女の理性を塞き止めていた堰堤が決壊する。
「こうかっ」
「左様にて御座いますっ!」
「ここかっ」
「いかにもっ!」
「いいかっ?」
「よろしゅうございますっ!」
「すごいか、たまんねえかっ?」
「たまりませぬっ!!」
女が声を枯らし、照りつける夏空に顔を上げて叫ぶ。
傷つき、縛られ、涙を流す少年武者は、どんな思いで母の嬌態を眺めているのだろう……と、慎之介は思った。
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犬猫の馬鍬いにも似た、百十郎と武家の年増が織りなすその嬌態。
慎之介は疼股間がどうしようもなくなり、思わず姉の袖口を掴んだ。
「あ、姉上……も、もうよろしいでしょう……わ、わたしはこれ以上見ておられません……」
紫乃が舌打ちをして冷たい目で慎之介を見た。
ほつれた蟀谷の髪が、燃えるように紅潮した頬に汗で張り付いている。
慎之介は姉のその殺気立った表情に、あろうことか、思わず埓を開けてしまいそうになった。
「ふん……この意気地なし。そなたは下がっておれ……わたしはこのまま最後まで見届ける」
ぷい、と野原の修羅場のほうに顔を向けてしまう紫乃。
「な、なぜそこまで?」
姉からの返事はなかった。
慎之介は野原の百十郎や、奴に嬲られている女、そして縛り上げられ、その様を見せつけられている憐れな息子に気取られぬよう、身を潜めていた高台の茂みを離れた。
背後から、
「左様にてございまするっ! 左様でございますっ! 達しますっ! 達しまするっ……たっし……あ、ああああっあああああっ!」
という女の断末魔が響いてくる。
「まだじゃまだじゃ、ほれほれ、これからだぞ。今度は表向きになってもらおうか奥方様!」
百十郎の下卑た声も聞こえる。
慎之介は、耳を塞いで逃げ出したくなった。
この修羅場から、というよりも……姉と続けてきた辛い復讐の旅そのものから。
慎之介はその茂みから少し下ったところに、沢を見つけた。
清流が涼しげに、全身を火照らせた慎之介を誘っているようだ。
(……それにしても、あんな憐れな、酸鼻を極める場面を見て、このわたしは!)
袴の中、褌に締めつけられた肉茎が、痛いほど張り詰めている。
笠を外すと、沢の水を掬い、火照った頬を、額を遮二無二洗った。
それでも股座の熱は収まらない。
大刀と脇差を帯から抜いて、そこらの岩に投げ出す。
そして思い切って袴を脱ぎ、小袖を脱ぎ捨て、褌一丁になって、沢の流れに全身を浸した。
水は予想以上に冷たく、躰には心地良かったが、やはり股座の疼きは収まらない。
目を閉じても、犬のように犯される女の白い尻が、背中が、揉み上げられるあの撓わな乳房が、瞼の裏に焼きついて離れない。
(……これではあの犬畜生と同じではないかっ……し、静まれ! 静まるのだ!)
慎之介は自分の手でその疼きを鎮める方法を、未だ知らなかった。
どれくらいそうしていただろうか。
突然、姉の斬つとした声が、水の中で自分の身体を躾けている慎之介のところまで届いてきた。
「お疲れのところ、失礼は承知の上でお伺いいたします! 貴殿は、かつて神崎潘随一の剣客として東海道にその名を知られる、蜂屋百十郎殿とお見受けいたしますが、相違ございませんか?!」
(あ、姉上? ……ま、まさか……)
慎之介は澤から上がると、河原に脱ぎ捨ててあった衣類を掴み、先程身を隠していた茂みのほうへと駆け出した……と、刀を忘れたことを思い出し、慌てて駆けもどる。
そして褌一枚姿のまま、全身に珠の水を浮かせ、大急ぎで姉の元へと走った。
高台に上ると、犯し尽くされて屍人のようにぐったりと萎れた年増と、同じように泣きじゃくるだけの赤子になってしまった息子の前で、紫乃と百十郎が対峙している。
紫乃は両膝を突き、脇に笠を置いて、両の掌を膝の前で重ね、百十郎を仰ぎ見ていた。
百十郎は紫乃のことをまったく無視して褌を締め直している。
その原っぱにいる三人の人間がまるで存在しないかのように、鼻歌を唄いながら。
「先刻の見事な太刀捌き、恐れながらあの高台の上より拝見させていただきました。貴殿の噂を伝え聞き、探し歩くこと半年。何より貴殿の見事な腕前をこの目でしかと見届けることができたこと、まことに幸運の巡り合わせ。何卒、わたしの話を聞いて下さらぬかっ!」
「見てたあ……?」
そこで、はじめて百十郎が紫乃に顔を向けた。
そして、髭だらけのたるんだ頬に、下卑た笑みを浮かべる。
紫乃は怯まない。
屹として、百十郎の顔を見上げ、目線を外さない。
「……抜く手も見せぬ、瞬きの間のひと太刀。拝神武流とお見受けしましたが、相違ござらぬか!」
「そんな名前だったかなあ? 確かに若い頃、いくつか道場に通ってたけどよ、何流とかなんとか、七面倒くせえんで覚えりゃいねえ。殺られたくねえから、そのガキには痛い目を見せただけってことよ」
紫乃は縛り上げられ、草に顔を埋めて咽び泣いている少年武者をちらりと見ると、身を起こし、少年に駆け寄った……上から眺めていた慎之介は、姉が少年の手当でもするのかと思ったが……
「い、痛いっ!」
紫乃は少年の腕をぐいとねじり、その刀傷を篤と改める。
「……なんと見事な! 見事としか申し上げようがございません! 両腕の内の腱だけを、掠る程度に浅く擦るように一筋……この左手も……」
「い、痛いっ!」
左手を紫乃が改める……少年の苦痛など、姉はまったく意に介していないらしい。
「同じように腱の上を一筋……あの早業で、どうやってここまで正確な太刀筋を……」紫乃は少年武者の手を放り出すと、また百十郎 の元にもどり、膝をついた。「いやはや、お見それ申し上げる! わたしも幼い頃より東進一刀流の道場を開いていた父に手ほどきを受け、今 日まで剣の腕を磨いてまいりましたが……貴殿ほどの使い手の技をこの目にしたのは、今日がはじめて!」
と、いきなり百十郎が、下卑た目で紫乃を見下ろした。
「そりゃどうでもいいけどよ……その餓鬼の手を使い物にならなくした後、あの女……」そういって、百十郎は草の上で腹ばいに臥せったままの裸の女を指差した。「あの女に向けた別の刃の技のほうも、おめえさんはしっかり覗いてた、ってわけだな? ……へへへ……かわいい顔して、意外と好き者らしいな」
姉が言葉で辱めを受けている。
(なんと……野卑な! ……わが姉上に向かってっ!)
慎之介は怒りのせいで飛び出しそうになった……が、自分は褌一丁の姿。
それに……野卑で下劣だとしても、あの男の凄腕にこの自分が敵う筈もない。
仕方なく、また茂みから姉の様子を見守ることにした。
紫乃は、すこしも動揺した様子を見せていない。
「はい、然と見届けました! 失礼を承知で存じ上げますが、まさしく貴殿こそ人の皮を被った獣! そのような輩はこれまでに大勢見てまいりましたが、貴殿のように腕が立つ獣はこの世に二人といない筈!」
「喧嘩売ってんのかあ? ……それとも、あの奥方様みたいに楽しませて欲しいのかい? お嬢ちゃんよお……」
「貴殿の腕を借りたい! それがわたしの願いですっ!」
「腕を? 魔羅ではなくてか?」
けらけらと笑いながら、袴も履かずに百十郎は大笑いする。
弛んだ腹が、大道芸人のように揺れている。
「わたしは七つの時、ある狼藉者に父を殺され、母を辱められました。その仇を弟とともに追ってはや十年、全国津々浦々を旅して参りました……行く先々で、 われらが敵の剣の凄腕、そしてその鬼畜の所業は知れ渡っており、旅を続ければ続けるほど、果たして我ら非力な姉弟に 本懐を遂げられるかどうか、心細くなる一方……」
「それなら仇討ちなんか、やめちまえばいいじゃねえか」と百十郎。「この母子のザマを見てたんだろ? やめとけやめとけ……仇討ちなんて。今どきそういうのは流行らねえ……」
「恥を承知で申し上げます! ……我らの助太刀をお願いできませぬか? なんとしても敵を討ち取りたいのです! あの『手篭め侍』を!」
そこで、百十郎が顎に手をやる。
「『手篭め侍』? ……そりゃあひょっとして、俺のことじゃないのかな」
「いえ、貴殿ではありません。わたしは母があの『手篭め侍』から辱め受ける様を、七つの歳に物陰から目にしてしまったのです……貴殿が三期 あの奥方様にされたこと以上に、それはあまりにも酷い仕打ちでした……父上の亡骸の傍らで……あの男は……」
百十郎は、紫乃の話にとても興味を惹かれた様子だった。
「そりゃ、たまんねえ話だな……その時も隠れて覗いてたのかい? ……それにしても、ま、よくある話よ」
「何卒、わたしたち姉弟に助太刀を! 『手篭め侍』に打ち勝つには、あなたの助けが必要なのです!」
百十郎は袴を履き終え、しばらく顎に手を当てて何かを考えている。
「お嬢ちゃんたちに協力したとして、おれに一体、どんな得があるんだい?」
にやりと好色な笑みを浮かべる百十郎。
「……誠に失礼ながら、百十郎どのは色事に目がないとお見受けいたしました」
「ほう」ちらりと、横たわる女の裸体を横目で見やる百十郎。「それで?」
「わたくしは何も持ってはおりまぬ。金子も帰る家も……父上から受け継いだ剣術とその志、そして……このわたしの躰以外には……それで我らを、手助けしてはくれませぬかっ?」
びゅう、と風が吹いて、草が水萌のように揺れる。
「ほう」百十郎が顎をさする。「お嬢ちゃんの躯が、おれのお駄賃ってわけだな」
(……あ、姉上……正気ですかっ……?)
背筋を伸ばし、律として百十郎を見上げる姉は、正気を失ってはいるかもしれないが、どうやら本気のようだ。
その様子を見て、百十郎は満足そうに頷いた。
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