扇蓮子さんのクリスマス 【2/5】
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それから毎朝、そのお爺さんを見かけるようになった。
お爺さんはいつもあのマンションの前のパイプ椅子の上に、白い杖を持ってお地蔵さんみたいに腰掛けてる。
頭にあのバカ帽子を被って。
そんであたしが前を通りかかると、毎朝毎朝、こう言うわけよ。
「……ゆみこお……ゆみこやろ……その足音は……ゆみこ、ゆみこなんやな?」
あたしはいつも無視して通っていた。
でもその日はちょうどクリスマスから一週間前やったらしいんよね。
あたしが通り過ぎて、数歩行ったところでお爺さんがあたしの背中に呼びかけたんよ。
「……なあ、ゆみこ、今年のクリスマスは来てくれるんやろ……?」
はあ? ……って思ったわ、実際。
どうやらおじいさんのとこには、毎年孫だか娘だかの「ゆみこ」が遊びに来るのことにになってるみたいなんよね。
少なくともお爺さんの中では。
……でも、どうなんやろ。
毎年、ほんまに「ゆみこ」はおじいさんのところに遊びに来てるんやろうか? ……あたしがその「ゆみこ」やったら……せっかくのクリスマスをあんなじーさんと過ごしたくはないなあ。
あんな汚いマンションで、二人っきりで。
たぶんお爺さんはボケてはるんやないかな、とあたしは思た。
そりゃ、例の「ゆみこ」ちゃんも、小さい頃はクリスマスの度にお爺ちゃんのあの小汚いマンションに遊びに来ていたのかも知れへん。
でもなあ……仮に「ゆみこ」ちゃんが、年頃の娘さんやとしたらどうやろう?
遊びに来るわけないわな。あんなマンションに。
あたしは何故か後ろ髪を引かれる思いで、そのまま会社に向かった。
お爺さんに言われて、そう言えば今日はクリスマスから1週間前やっちゅーことに気づいた。
べつに嬉しゅうとも何ともないけど……
はああ……と思わず溜息が出たわ。
会社のほかのガールの皆さんは何か知らんけど、みんなウキウキ気分。
昼休みともなればチャラチャラした若い衆がそれぞれのクリスマスの予定をあれこれ打ち明けあってけつかる。
ああもう、あほちゃうか。
それに加えてや。
その日の昼休み、あたしがコンビニの弁当食べて、会社の喫煙スペースでひとりタバコを吸ってるたときに、急に携帯が鳴った。
「……もしもし?」
我ながら、ほんま無愛想な声やったと思うわ
「あ、……おれおれ。蓮子? ……元気か?」
今年の夏の終わりに、別れた男からやった。
「………何? ………何か用?」
あたしはますます無愛想な声になってもた。
「……別にとくに用っちゅーわけでもないんやけどな………それはそうと、お前、クリスマスとかどうするわけ? ………何か、予定とかあったりすんのか?」
「そんなんあんたになんも関係ないやろ」
「いや、その……なんちゅうか、おれもヒマでなあ……やっぱご時勢はクリスマスやんか。その……どや、いっぺん、俺と会うて、メシでも食うっちゅうのは?」
「…………」
あたしはその時、ほんっまにこの男と別れてよかったと思たわ。
よーするに、アレやろ?
……世間はクリスマスなもんやから、なんとなく意味もなく人恋しゅうなったこの男は、コナかける相手がおらんかったっちゅー話や。
ほんま、あたしを何やと思とんねんやろ。
「……悪いけどな。あたしには先約があんねん。あんたなんかと付き合ってるヒマないわ」
「……え、何? 蓮子? ……ひょっとして新しい男できたん?」男は半笑いやった。いやほんま、まじでムカついたわ。「へーえ……そりゃ良かったなあ……で、何? 新しい相手は、会社の人か?」
「知らんっちゅーねん。そんなん、あんたと何の関係もないやろ。放っといてんか」
「……どっちにしろそれやったら……おれ、寂しいなあ……どうやってクリスマス過ごしたらええんや」
「知らん、言うとるやろ。オナホでも買うたら?」
あたしはそのまま電話を切った。
さらに携帯に残っていた男の電話番号を削除した。
何でか知らんけど……その日まで、削除すんのを忘れてたみたいや。
その日もハードに残業で、会社出たんは11時を回ってたかな。
親の仇みたいに寒い日で、あたしは分厚いコートの上にマフラーをぐるぐる巻きにして帰り道を歩いてた。
会社の周りはそれなりにに賑やかやろ。
でも、デパートとかも閉店して、店の周りのイルミネーションすら消えとる。
いつもはイライラするだけやのに、なんか心の芯まで寒なってしもたわ。
なんやかんや言いながらも、あたしは去年のクリスマス、さっきの男と過ごした一夜の事を思い出してた。
……ちょっと西田くん、またあんたなんか、やらしい事考えてたやろ。
……そりゃまあ……やらしい事もしたよ。
いつもよりちょっといい晩御飯食べて……どこやったかなあ……小じゃれた小さいレストランで、コース料理やったと思うわ。
それから予約したちょっとましめのホテルでさ、ほら、アレよ。
プレゼント交換したりしてな。
男から貰うたんは……ほれ、このネックレス。
ええやろ。いちおう18金やで。メッキちゃうで。
……ああ、あたしは現実主義者やからね。
別れた男から貰うたもんを捨てたりせえへんよ。
とまあ、その前の年はいろいろとそれなりに楽しい思い出があった訳よ。
そやから帰り道はますますブルーやった。
で、駅からの帰り道、またあのマンションの前に通ったんよ。
昨日と同じやった。パイプ椅子の上に、バカ帽子がひとつ。
お爺さんはこの汚いマンションの中のどれか部屋で、一人寂しく寝てるんかなあ……なんて考えみた。
もしくは寝る前の一杯でもやってるんかもね。
……どう考えても、おじいさんに家族が居るとは思えへんかった。
あたしはまた輪を掛けてブルーな気分になってしもたまま、家に向かった。
それからも毎朝、おじいさんに会うた。
「ゆみこ……あと6日でクリスマスやねえ」
「ゆみこ……あと5日でクリスマスやねえ」
「ゆみこ……あと4日でクリスマスやねえ」
……。
一日一日、おじいさんのカウントダウンは続くわけ。
なんなんやろね?
それで帰り道には……あのパイプ椅子の上に置かれているバカ帽子を見る。
やっぱり23日の金曜日の晩もおんなじようにバカ帽子を見て………
はあ、あしたはクリスマスなんやなあ、と思わざるを得んかったわけ。
■
で、さっきも言うたけど……その年のクリスマスは土曜日で休みやった。
あたしは昼前に起きて、洗濯をして、お部屋の掃除して……
うだうだしてるうちにあっという間に夕方になってしもた。
なーんか、テレビつけてもラジオ聴いててもさ、今日はクリスマス!”っちゅー能天気な話題ばっかり。
アホか。何がクリスマスじゃ。
そう思てあたしはフテ寝を決め込んだわけ。
そしたら去年のクリスマスの夢を見た。
この前、もと彼から電話が掛かってきたときはうんざりした気分しかせえへんかったけど、夢の中ではあたしともと彼は昔みたいに仲良くて、それはそれはラブラブやったわけ。
コース料理を食べて、それからちょっといいホテルにチェックインして、プレゼントを交換して……
あー、そうそう。
西田くんがいま想像してるようなことしたわけ。
ああ、しましたよ。しまくりましたよ。
でも夢とはいえ、すっごいリアルな夢やったなあ。
あの男があたしにキスしたり、体に触ったりすんのが、ほんまみたいに感じられた。
でまあ、服脱がされて、ベッドのうえに広げられて、身体のそこら中にキスされて……下着もぜんぶ剥ぎ取られて……
西田くん、めちゃくちゃ食いつきええな。
スケベ。
コタツの中で目を覚ましたら、もうすっかり夜やった。
あたしかて人の子やなあ、と思たわ。
これって何かの病気なんとちゃうかな。
誰かれなしに、クリスマスに一人で過ごしてると寂しくなるのんって。
……アホらしいと思わへん?
別にクリスマスもほかの日も大して変わりはないやん。
でもなあ、その日はあたしもクリスマス病にしっかり犯されてたんかね。
なんかこのまま、テキトーにご飯食べて、テキトーにお風呂入って、そのまま寝るのはものすごく空しい気分がしたんよ。
……かと言って、あたしってあんまり友達おらんやん。
西田君はそのころ会社におらへんかったけど、あんたみたいなんこんな日に呼び出して、変に誤解させんのも何かなあ、っちゅう感じやったし。
……え、僕はそんな勘違いなんかしませんよって?
あたしかてそんなつもりないわ。それはお互い様やろ。
それに女の友達がいたとして、そいつらで集まってクリスマスにかこつけた飲み会やったりすんのもなあ……なんかそれって、メチャクチャ空しゅうない?
まあ、そういう事してる子らも腐るほど居るんやろうけど、ええかげんある程度の歳になるとなあ……
十代の子らがそういう事してんのと、わたしらみたいなええ歳の女どもが寄ってたかってそういうことしてんのとでは、空しさの度合いが違うんよ。
とにかくこのまま今日一日をコタツの中で終わらすんは、あんまりにも寂しかったんで、あたしはコタツを這い出して、とりあえずお風呂に入った。
まあ何の予定もなかったわけやけどね……それで少しましめの服をタンスから出すとそれを身に着けて……どうしょうかなあ……思たけど、去年、あの男から貰ったこのネックレスもつけた。
鏡で自分の姿を見てみたら……ああ、何や。
結構ええ女やないの、と自分でも思たわ。
ここ、笑うとこちゃうで。
その時はどこに出かけるかははっきり決めてなかったんやけどな。
まあ、クリスマスで浮かれるアホの群れ観察に、街に出かけるのもええやろ。
あたしは今年の秋に買ったブーツ履こう思たけど……やっぱやめていつもの靴履いて外に出た。
ほんま、外はいやがらせみたいに寒かった。
それに輪掛けて、あたしの住んでるとこってラブホテル街の近くなんやんかあ……。
こんな日には、最悪の環境やで。
いたるところに居るわ居るわ、幸せそうな若いカップルが。
ニヤニヤして、ふたりで人の目気にしながら(誰も見てへんっちゅーねん)……お菓子とか飲み物とかが入ったコンビニ袋とかぶら下げてさあ……スルスルとホテルに入ってくわけ。
ああもう、外なんか出るんやなかったかなあ、と思いながら、あたしは駅の方へ歩きはじめた。
と、雪が降ってきた。
ああ、もう、頼みもせんのにホワイト・クリスマスか。
コートの襟を立ててカツカツ踵を鳴らして歩いていると、あの汚いマンションの前に来た。
さっすがにこんな寒い日はあのお爺さんも外には出てないやろ……と思てたら、案の定、パイプ椅子にはあのバカ帽子が置かれているだけやった。
あたしが立ち止まってそれを見てると……いきなりマンションの二階の窓がガラリと開いた。
「……ゆ、ゆみこか?………ゆみこが来てくれたんか?……ゆみこなんやろ?」
あたしはおじいさんを見上げた。
おじいさんは、白い杖を持ったはるくらいやから、当然目が見えへんねんやろう。
それでも、おじいさんは「ゆみこ」がやってくるのを心待ちにして、家の中で窓にぴったり耳をつけて、道ゆく人々の足音を聞いてたんや。
「……あ……」あたしの口から、信じられへん言葉が出た。「……おじいちゃん、メリー・クリスマス……ゆみこやで。元気やった?」
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