インベーダー・フロム・過去 【10/11】
■
電話は、三週間も行方不明だった公一からだった。
「……こ、……公一??」
電話口の向こうから微かに、公一の息の音が聞こえた。
多分、外からだろう。
遠くでパトカーかなにかのサイレンの音がする。公一は黙っていた。
「……もしもし? 公一? ……い、今どこにいるの?」
「……」
無言だったけど…その無言は明らかに公一の無言だ。
わたしにはわかる。
「……どこに行ってたの? 三週間も……」
「……どこにも行ってないよ」と、公一が初めて言葉を発したと思うと、すぐ咳を喉に詰まらせた。「……ずっと、君の半径2キロ以内にいたよ」
「……え?」
「寂しかった? ……いや……そうも見えなかったけど」
「???……あ、あの……」
どういうことだろうか。
わたしの半径2キロ以内にずっと居た? ……わからない。
というかここのところずっと精神を保ってるスコッチのだるい酔いのせいで、頭が働かない。
「楽しかった? この3週間。いろんな懐かしい男に会えて……それはそれで楽しかっただろ?」
「な、何言ってんの? ……ねえ、教えて。今、どこに居るの? 三週間、何してたの? わたし……わたしもう、何がなんだかわかんない。どうなってんの? ねえ、これ、一体なに?」
「……たった3週間のことだろ。短いもんじゃないか」公一の声は、ぶっきらぼうで、すごく冷たかった。スマホを当てている耳から、自分の体が凍り付きそうな気がした。「……で、見つかった?」
「……な、何が? 見つかったって……何が?」
「……知ってるくせに」
「……わからない……わかんないよ……」
「……君が何をしようと君の自由だけど、そんな風にお酒を飲むのはよくないね。一人で酔いつぶれるために、ツマミもなしに強い酒をガブガブやるなんて、まるでアル中だよ」
そうかも知れない、とわたしは思った。
「……酔っぱらってるから難しいことが考えられなくなってるんだよ。みんな酔うとそうなるけど、君の場合はそれが酷い。あの晩もそうだった……君はどうも、全く覚えてないらしいけどな」
「……な、なに? あの晩って……」
「……僕のネクタイで目かくしされたまま目を覚ましたろ。あの前の晩のことだよ」
「…………えっ?」
「………はあ……」公一は深い溜息をついた。わたしは自分がまるで、飲み込みの悪い馬鹿な子どもになったように感じた。「……ああ、ほんとに覚えてないんだ」
バカみたいにあしらわれ続けて、さすがにわたしもイラつく。
「……わ、わたし……わたし、すっごく寂しかったんだよ? なんでこんなことができるの? なんでわたしに……こんなひどいことができるの?」いつまで経っても冷たい態度を崩さない公一に対して、わたしの感情が爆発した。「だいたい何? “見つかった?”って……何わけわかないこと言ってんの?? いつまでわたしを苦しめんの? ……ねえ、いったい、どういうつもりなの? ね え、これは一体いつ終わるの???」
公一に言葉をぶつけながら、いつのまにかわたしは誰に対してこんなに怒っているのか判らなくなった。
勝手に居なくなって、三週間何の連絡もよこさずに、いきなり電話してきてわけのわからない嫌みをいう公一に?
それとも電車の中でわたしにいやらしいことをし続けたあの男に?
夢に現れてはわたしを蹂躙するあの顔のない“シマハラ”に?……それとも過去の男たちに?
わけがわからない。
感情が湧き出て溢れるに任せる。
気が付くとまた泣いていた。
言葉が出てこなくなって、わたしがスマホを握りしめたまま荒い息をしていると、それまでずっと我慢していた公一が口を開く。
「……三週間くらいなんだよ……僕なんて……三年だぜ」
「……え?」
「……人間、どれくらい孤独に耐えられると思う? 少なくとも僕は、三年が限度だった」
「こ……孤独っ……何が?」
「……君は覚えてないだろう。目を覚ましたときはすっかりそれを忘れていて、何食わぬ顔で僕に『おはよう』と言うんだ。僕は君と結婚してからの3年間、一回も朝までぐっすり眠れたことはない。一回も…一回もだ。わかる? ……この辛さが??」
「……な……何のこと?」
わたしには本当に判らなかった。
酔いのせいではない。
「……君は、毎晩。それこそ毎晩、うなされていた。いや、うなされてたって言うんじゃない。眠りながら悶えて、喘いでいたんだ。シーツの上で体をくねらせ、太股をきつく閉じて、シーツを噛んで、腰を浮かせてね…………多分、君には想像もできないだろう。自分の妻が毎晩のように淫夢を見て、悶える様を見せつけられるダンナの気持ちはね……」
毎晩? ……わたしが毎晩、そんな様子だったというのだろうか。
「人間は誰でも……眠れば必ず夢を見るらしいよ。目が覚めたときに、その内容を忘れてしまえば、人間はゆうべは夢を見なかったと感じる。だけど眠っている間の脳は、いつも夢を見てるんだ。君は毎晩、何かしらないけどいやらしい夢を見て、夢の中に出てくる何者かに犯されて、僕の目の前で悶えてたんだ。判るかい? ……何よりも傷ついたのは、僕とセックスをした夜も、君が同じように悶えたことだ。そして、いつも……いつも、君は散々悶えた後、寝言でこう呟くんだ……“シラハマ、シマハラ”って。それが結婚してからこっち、三年間続いた……もう限界だった」
「…………」
電話口の公一の声が、かなり掠れている。
泣いているのだろうか。
興奮しているのだろうか。
「………何なんだ、“シラハマ・シマハラ”って? それが毎晩夢の中で君を犯してる男の名前だろうか? 僕は寝ても醒めてもそのことを考えていた。よく考えれば、僕は君の過去についてあまり知らない。別に知ろうともしなかったし、知りたくもなかった。僕は、君と結婚できて幸せだったからね。こうして目が覚めている間の君と、楽しい毎日を送っているだけで充分じゃないか。過去がどうあろうと、僕には今の君がいるんだし、それでいいじゃないかって考えようとした……」
「わ、わたしも……」わたしの声も掠れている「わたしも……だよ?」
公一は無視して話を続ける。
「……でも、それでもダメだった。どうしても毎晩、ベッドの中で夢を見て悶えている君を見ると……君の過去を想像せずにおれなかった。どうしても君の過去について知りたくなったんだ。三ヶ月ほど前、君が留守のとき、僕は一人で部屋にいた。引っ越ししてきて以来、段ボール箱の中に入れたまま仕舞いっきりになってた君の私物を探ったんだ……日記帖や、手紙や、写真や、そんなものがないかどうか探すためにね……不思議な気分だったよ。見つけようと必死に探しながら、何かを見つけることがすごく怖かった。とっても矛盾した気持ちだった」
その気持ちは理解できる。この三週間、わたしが感じていた気持ちと同じだ。
「……“僕は一体何をやってるんだろう?”って何度も思った。部屋は暑くなかったけど、なぜか全身にいやな汗をかいた。段ボールの中身をひっくり返しても、君の子供時代の写真が入ったアルバムやら卒業少々やら寿退職のときの色紙やら、そんなガラクタしたしか見つからなかった。……あ、ごめん。ガラクタってのはちょっと言い過ぎだったな……安心したような、残念なような複雑な心境で段ボール箱にものを詰め直してるときだった……見逃していたものがあった……本だ」
「……本?」
まったく、わからない。というか、覚えていない。
「……イアン・マーキュアンの『初夜』の文庫本さ。覚えてない?」
「……ええと……」
やはり、覚えていない。
まったく。なにひとつ。
わたしはあまり本を読む方ではないので、自分で本を買うことはあまりない……多分誰かに無理矢理押しつけられるように貸されたものを、読まずに放っておいてそのまま借りていることすら忘れたのだろう。
借りパクというやつだが、貸した方も多分すっかりそんな本を貸したこと自体忘れていると思う。
「……まあいいや。とにかく、それを捲って見ると……それに一枚、写真が挟んであったんだ。そう……あの写真さ。まだ髪が短かった頃の結婚前の君が、上半身裸で胸を腕で隠して立っているあの写真だよ」
わたしは出すべき言葉を失っていた。
あの写真を入れている自分のカバンの方に目をやる
……目がX線になって…カバンの中のあの写真だけが鈍く輝いているのが透けて見えているような気がした……
もちろん、気のせいだけど。
「……確かに……」公一はそう言って咳払いをした「…結婚前の君がどんなだったかなんて、僕には関係のないことだ。君が過去になにをしていようと……それが今の僕たちの楽しい生活を脅かすわけじゃない。僕は、僕の中の“理性的な自分”がそう言っているのを聞いた。いや、そう思いこもうとしていたんだな。でも……もうひとりの自分が言った……」
そこで公一は声色を変えた。
くぐもったような、低い声に。
そう、あの夢の中に出てくるあの男と、そっくりな声で。
「『そうじゃないだろう? ……もしそれが今のお前にとって問題ではないのであれば、なんでお前はヨメさんの私物を漁ったりしてるんだ? ……本当は悔しいんだろう? ……奥さんの過去に自分の知らない男との情交があったことが、悔しくて溜まらないんだろう?』……僕は、あっという間に、“もう一人の自分”に負けた」
「……そんな……」
わたしは何を言おうとしたのだろうか?
とにかくそれ以上言葉が出ない。
「それから……僕は、眠っている君にささやき続けた。君があの写真を撮られたとき……どんなふうだったか想像しながらね。『ほら、壁に手をつけよ』とか、『こんなに濡らして、いやらしいねえ』とか、『ほら、お尻を突き出して』とか……『もうイきそうなのかい?』とか……そして、僕が囁くたびに……君はますます激しく悶えた。まるで、誰かとセックスしてるみたいに……」
「公一……」わたしは涙を飲み込みながら声を出した「戻ってきて……おねがい」
しかし、公一はわたしのことを無視する。
「……こんな僕は、みじめだろう?」公一が感情のない声で言う「世間のダンナ様方は、皆こんなことに折り合いをつけて、苦もなくそれをやり過ごしているんだろうな。自分の奥さんが昔、どんな男と何をしたのだろうと思うと……心が暗くならない男は居ないだろうけど……それに加えてその事実自体に欲情する男も居るんだよ。僕がそうさ………判ってる。そんなことは自慢できたことなんかじゃない。それに……僕は世の中の一人前の男たちと同じように、“そんなことは夫婦お互い様さ”と割り切ることができない」
「……わかるよ……」
共感できない話だったが、公一の痛みと寂しさを想像することはできた。
「わからないよ……君と付き合うまで、僕は…………童貞だったんだよ」
そのことは、さすがに知らなかった。
■
電話で公一に言われたとおり、わたしはべろべろに酔いながら会社の最寄り駅で降りた。
何時くらいだったのかははっきり覚えてないけど、多分もう、終電近かったんじゃないかな。
改札を出ると……公一が言ったとおり、あの男が……シマハラではない男、侵略者、またはミスター痴漢氏が……柱にもたれて立っていた。
学校の先生に叱られたように、浮かない表情だった。
彼はわたしに気づくと、そのくっきりした二重の瞼をわたしに向けた。
そしてわたしの目線から目を逸らせる。
「こんばんは」
わたしから挨拶をした。
「……ど、ども」
彼は軽く会釈して、小さな声で言った。
これがわたしを電車の中でさんざんいじり倒し、ハードな言葉責めをかけてきたあの大胆不敵な“侵略者”と同一人物であるとは、とても思えない。
そういえば……前回はズボンの中で盛大にイかせてやったんだった。
そのせいか……彼はとても貧弱で、小さな存在に見えた。
「あなたも、公一に呼び出されたの?」
「……公一って……あ、あなたのダンナさんですか? ……はい、そうです」
「……名前はなんての?」
「……ええと…………小泉といいます」
妙に笑える名前だっ。
どうでもいいが、とにかく呼び名ができた。
わたしは小泉と歩き出す。
公一の呼出先は、3週間前、わたしが目かくしされて目覚めた、あのホテルの一室。
駅からはすぐだったが、ほんの少し小泉と会話することはできた。
「ねえ、ところであんた……一体何なの?」
「……え、僕ですか」
ほんとうに、自信なさげで頼りない男。
「うん……あんたしか居ないじゃん」
「……その……それは……」
「公一とはどういう関係なの?」
「……え、ダンナさんとですか」
「うん、それしか居ないじゃん……いちいちこっちが聞いたこと聞き返さないでよ」
ちょっとイライラしてくる。
痴漢のくせに。
なにをモゾモゾしてるんだ。
「……はあ、あの……それは、ちょっと恥ずかしい事情がありまして……」
「……恥ずかしい事情? まさかうちのダンナと肉体関係あるとか?」
半笑いで言ってやる。
「ちm違いますよ!」小泉はムキになった。そんなところはまだ子どもっぽい。「……その、あの……僕はその……電車に載ると、……その、つい、………女性の身体に触ってしまうことがありましてことがありまして…」
「え、あんた……ほんものの痴漢だったんだ」
これにはびっくりした。
「……その、あの、2ヶ月ほど前、その……朝の電車で……その、たまたま前に立っていた女子高生の身体を……はずみで、触っちゃってたんです。すると、女性が騒ぎ出して……頭が真っ白になっているところを、ご主人が……公一さんがわたしを捕まえて、『次の駅で駅員に突き出す』と周りの乗客に言ったんです」
「へえ……」
公一にもそんな頼もしいところがあるのか、と思った。
「……もう、頭の中は真っ白で、完全にパニック状態だったんです。そこで……土下座でもしてご主人に赦しを乞おうか……もしくはご主人を線路に突き落として自分も死のうかと……本気で考えました」
「……なんだか、ずいぶん極端だなあ……痴漢なんて、命までかけてやること?」
“死ねばよかったのに”と思ったが、言わなかった。
「……すみません。でも、その時の僕にはそんなことしか考えつきませんでした…………ホームに降りると……ご主人は僕の財布を取り上げて、僕の名前と住所を確認しました。もうだめだと思ったんですが……意外にもご主人は僕を駅員に突き出そうとはしませんでした」
「……へえ?」
「……『前科者になりたい?』ご主人は言いました『ご家族が息子が痴漢だなんて知ったらどんなに悲しいと思う?』って……僕は泣きながら、ほんとうにそのことを考えると死にたくなりました。でもご主人は言ったんです『駅員には突き出さない。その代わり、僕の言うことを聞くかい?』……なんのことだかわかりませんでした……とても……失礼な話なんですが、一瞬僕は、ご主人が僕にわいせつなことをしようと思ってるのかと思って、ヒヤっとしました」
ちょっと、吹き出しそうになるのをこらえる。
「……自分は痴漢のクセに……まあ痴漢らしい勘違いというか」
「……でも、ご主人が要求してきたのは……その……なんと言いますか…」
「……なに?」
「……ご主人の指示どおりに、その……ある女性を……電車の中痴漢しろっていう奇妙なものでした……その……つまり、ある女性というのは……」
「……わたしの事?」
なんとなく、これで少し話が繋がった。
「……そうです……」
「……なんで公一はそんなことを?」
「さあ……僕もあまり深く考えたことはありません。とにかくご主人の要求はいろいろでした。あなたの耳を舐めろとか、口に指を突っ込めとか、その他いろいろと……お宅に電話して『あなたの夢の中に出てくる男』と名乗れといったのも、ご主人です。痴漢をしながらあなたに言ったいろいろな事、やったこと全ては……全てご主人が指示したとおりのことです」
「……はあ……」
ため息が出る。
「……だから、僕は仕方なく……」
「……そのわりには、楽しそうだったじゃん」わたしはわざと意地悪に言った。「ほら、あんたと別の二人に、取り囲まれていやらしいことされた時のこと覚えてる?」
「……はあ、あれは全くの予定外でした。彼らは多分ほんものの痴漢で、僕があなたをいいようにしているのを見て、それに便乗したんでしょう……」
「あんただって『ほんものの痴漢』じゃん」
「そ、そうですが……」
また溜息が出た。
間もなくホテルに着く。
「今日は、酔ってないんですか?」小泉が聞く「あの日は、メチャクチャに酔っておられたようですけど……」
「うん、今日も酔ってないわけじゃないけど、大丈夫」
何が大丈夫なのかは知らないが、二人で公一の待つ部屋に向かう。
部屋につくと、公一は灯りも点けず、窓際のソファに座って煙草を吸っていた。
わたしは公一が煙草を吸うなんて知らない。
暗いせいで、煙を吐き出す公一の表情は伺えない。
「ひさしぶり……」
わたしは言った。
「お二人とも……おつかれさん」
公一が、抑揚のない声で答える。
「……元気?」
わたしは顔の見えない公一に言った。
「うん、元気。………髪を切ったんだね。うれしいよ……あの写真の頃みたいだ」
わたしと小泉は部屋のドアのところで立ちつくしていた。
今日はいろんなことを知った日だ。
今日知ったことその1……“痴漢氏”は小泉という名前で、本物の痴漢で、公一の知り合いだ。
今日知ったことその2……わたしは結婚して以来、毎夜のように夢の中で悶え、それを公一に見せつけてきた。
今日知ったことその3……あの“写真”は小泉を経由して、公一からわたしに贈られたものである。
今日知ったことその4……公一は煙草を吸う。
「さて、と」公一がそういってテーブルの上のランプを点けた。懐かしい顔がそこにあった。「……座ったら?そのへんに」
わたしと小泉は、並んでベッドに腰掛けた。
「ほんっとに……何も覚えてないんだね」公一が言った「人間って素晴らしいね。覚えていたくないことはすっかり忘れることができるんだから」
わたしも、抑揚のない声で答える。
「さあ……どうだろ……完全に消えちゃう記憶なんてないよ。どこか心の奥で、眠ってるだけだよ」
「……ふうん」公一は無表情だった。よく見ると煙草を吸っているのではなく……煙だけを噴かしている。「……じゃあ、その眠ってる記憶を呼び覚まそうじゃないの。あの晩と同じように」
……見るからに緊張している感じの小泉が、ゴクリと唾を飲み込むのが横目に映った。
「……どうすればいい?」
「前と全く同じさ……これをつけて」公一が上着の内ポケットから安物のネクタイを出した「目かくしして」
わたしは素直に従う。
真っ暗な中……部屋は静まり返っている……小泉と公一の、かすかな鼻息だけが聞こえた。
胸がドキドキしてきた……確かに細かいことは忘れているけど……この部屋で3週間前に経験した胸の高鳴りだけは、心臓のほうが覚えていたようだ。
「それから……どうするの?」
「服を脱いで……そのまま、脱ぎ散らかして」
公一の声は、少し上ずっていた。
泣いているのだろうか、それとも興奮しているのだろうか。