妹 の 恋 人 【1/30】
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目の前にいるのは、ありとあらゆる冴えない男の、とりわけ醜い部分を縫い合わせて作った、フランケンシュタインの怪物のような男だ。
はげでデブで分厚い眼鏡。
一メートル以上間隔を取っているのにこちらまで匂ってくるほど息は臭くて、顔はテッカテカに油染みている。
顔中に残るクレーターのような吹き出物の痕と、新鮮な脂を吹き出している新たに出来たらしい吹き出物。
チックなのか、時々目をシバシバさせ、あまり洗っていないらしい前歯を覗かせて、意味もなく笑う。
その見えた前歯にすら無神経な金色の詰め物が見える。
わたしに断わりもせずに男が吸い出した煙草の匂いも最悪だった。
死体をガソリンで燃やしても、こんなひどい匂いにはならないだろう。
口の周りにいっぱい涎を溜めて、眠たそうな目には光がなく、その端には黄色い目やにが溜まっている。
どんなに努力しても、この男の一部分さえ、好きにはなれないように思えた。
……しかし……わたしの妹の咲子は、この男と関係して……そして子どもまで作り、いつものようにわたしがその尻拭いをしている。
男の目がちらちらとわたしを盗み見ている。
その目は好色さを隠そうともしていない。
全身を舐め回されるみたいで、鳥肌が立つ……でも、男がわたしに対して何やらいかがわしい、いやらしい感情を抱いているかと思うと……
だめだ。
何を考えているんだ、わたしは。
「ほんっとうに、お姉さん、サッちゃんとそっくりですね」男が言った。歯のすき間から漏れる酷い匂いの煙と一緒に。「髪型が一緒だったら、ほんとうに見分けがつかないだろうなああ……」
「そんなに気安く妹の名前を呼ばないでください」
わたしはぴしゃりと言った。
「あ、すみません……えっと……た……貴子さん、でしたっけ」
男はへへへ、と笑って鼻の頭を掻く。
「わたしのことも、気安く下の名前で呼ばないでください」さらに語気を強めた……が、効果はない。
「いや、ほんとに……すいません。田端さん」
そういって男は口をすぼめて、冷め切ったコーヒーを啜った。
ズ、ズ、ズー…と不快な音を立てて。
まるで、銀バエが糞尿にたかっているようだった……って、これは決して誇張した表現ではない。
「……いいですか、今後、妹にはぜったいに会わないでください。今度は、容赦しませんからね」
「ああ、怖い」男は言った。しかし、ぜんぜんそんな風には見えなかった。「もうもう、そりゃもう、もちろんですよ……」
「……あのですね、佐々木さん、わたしは真面目なんですよ。あなたのおかげで、妹はひどい目に遭ったんですからね。本来なら、こっちから慰謝料を請求することもできるんですよ。あの、ちょっと、聞いてますか、佐々木さん?」
「あ……?」なんと男は鼻くそをほじり、鼻の穴から抜き出した小指の先を見ていた。「……ええ、はい」
「わたしは、あなたの奥さんにこの件をお伝えすることもできるんですよ。それを今回は、許してあげてるんです。このことを、しっかり肝に命じてくださいね。いいですか、佐々木さん」
「……でも」
男は視線を下に落として、すねた子どものような表情を作った。
このうえなくおぞましい眺めだった。
「……僕らは、その……なんていいますか……」
「……なんですか?」
つくづく、いらいらさせる男だ。
「……その、僕と、咲子さんは、愛し合っていたわけですし、男女の間というのは、その……あらゆる障害を乗り越えるものでしょ?」
「あなたが自制すれば!!」
わたしは思わず怒鳴っていた。
喫茶店にいた他の客全員の視線がわたしたちのテーブルに集中する。
わたし“たち”って……? イヤだ。
そりゃ確かにこの瞬間はこの男と同じテーブルに着いているけれど……たとえ頭の中でもわたしとこの男を、ひと括りにしたくはない。
複数形なんかで考えたくない。
そんなことを少しでも考えると、またわたしは……
だめだ、それを考えるなということを考えるのもやめよう。
わたしは慌てて周囲を見回した。
数人の客と視線を合わせてしまったが、気を取り直して男に向き直り、言った。
小声だったが、しっかりと男を睨みつけて。
「……あなたが人間らしく、そのお歳に相応しい分別をもって、自制されていたら、こんなことにはならなかったんじゃないですか?」
「……」
男は黙っていた。
黙って、相変わらずニヤニヤしながら、わたしの顔を見ている。
「……何がおかしいんですか」
「いや、別に」男は言った「……その、わたしサッちゃん……いや、失礼しました……咲子さんが怒った顔って、見たことなかったんですよ……で、お姉さんがあんまり咲子さんに似ていらっしゃるから……」
「は?」
「あの……怒ったお顔もなかなか魅力的だなあ……と……」
「……な、な、な……」怒りのせいで一瞬、目の前が白くなった。「な……何言ってるんですか? 自分が今、何言ってるかわかってるんですか?」
「……はい?」
男はまた誠意なく笑った。
「……あなた、自分が今、どんな立場かわかってるんですか?」
「……はあ」
と言って、また笑う。
糠に釘とか、暖簾に腕押しとか、二階から目薬とか、いろいろ言い方があるが、つまりこういう状況のことを言うのだろう。
とにかく何を言っても手応えというものがまったく感じられない……どうして妹の咲子は、こんな油虫みたいな男ばかり好きになるのだろう? ……本当に理解できない。
いったい、こんな男と過ごす時間から何を得られるというのだろう?
……しかも咲子はこの……この、出来損ないで皮膚病持ちの蝦蟇蛙のような男とセックスして、妊娠して、つらい堕胎をして……あっ。
だめだ。
また余計なことを考えてしまう。
こいつが(この時のわたしは、この男を表現するおぞましい比喩を、これ以上思いつけなかった)、妹の咲子の……わたしの双子の妹である咲子の……身体を弄んだんだ。
あのハナクソをほじっていた、ニコチンで黄色く変色した、太短い指で……ああ、だめだ。
考えるな。考えるなわたし。
気が付けばわたしは、喫茶店の安物のソファの上で、太股をすり合わせていた。
「……あれ、どうかしました?」
男が言ったので我に返った。
「いえ……その、なんでもありません。あなたにひどく腹を立てているだけです」
「……ああ、それなら良かった」なにが“良かった”のだこのクズ。「なんだか、お姉さん、顔が赤くなってますよ? 具合でも悪いんじゃあ……」
「ち……」わたしの胸が鋭く、どきん、と痛みをともなって息づいた。「……ち、違います! 余計な心配しないでください! ……わ・た・し・は、あなたに対してひどく腹を立ててるんです!」
「……はあ、それはもう聞きましたが」
「いいですか、もう二度と……二度と妹の前には顔を出さないでください!わかりました? わかりましたね! 佐々木さん!」
「……それももう聞きましたが……」
佐々木はそう言って信じられないことに、大きく欠伸をした。
今度はほんとうに怒りから……膝がわなわなと震えるのを感じた。
しかし、相手の男に対する嫌悪が強くなればなるほど……だめだ。
ぜったい、それ以上考えたらだめだ。
わたしはテーブルの中央にあったレシートをひったくった。
「帰ります」
わたしはそう言うと、佐々木の顔も見ずに席を立った。
「ぼくが出しますよ」
佐々木が言った。
明らかに本気ではない声だった。
本気ではないことにムカついたが、それに輪をかけて、そんな体裁だけを繕おうとするこの男の人間性に、リアルな吐き気が込み上げてきた。
「いいです。わたしが払っときますから。じゃあ、佐々木さん。さようなら。永遠に」
そのままわたしはレジに向かって、支払いをして、店を出た。
佐々木のほうに、一度も振り向きはしなかった。
振り向いたら……わたしのお尻や脹ら脛に絡みつくような視線を投げかけている、佐々木と目が合うのがわかっていたからだ。
ものすごい怒りと、そして気を緩めるとすぐ襲ってくる、あの不条理な感情が胸の中でもんどり打っていたので……その時支払ったのがいくらだったのかすら覚えていない。
それどころか、地下街を出て、二駅間ほど歩かないと、落ち着きを取り戻せなかった。
ふと気付けば、冬をすぐそこに控えた晩秋の人混みの中に居た。
ああ、あの男の息が届く範囲、視線の及ぶ範囲、あの男をまったく意識しないで済む安全圏までようやく逃げてきたんだな、と思うと、なんだか気が抜けた。
そして……妹の咲子のことを思った。
人はわたしたちが瓜二つだというけれど……そうだろうか?
鏡で見る自分の顔と、自分の目でみる咲子の顔は、確かに似ている。
そして……背格好や体つきは……やはりよく似ているような気がする。
しかし……わたしはショートヘアで、咲子は肩まで髪を伸ばしている。
また、目つきが違う。
口元の締まり具合が違う。わたしはいつも怒り気味の顔で、咲子はいつも、あいまいな笑みを浮かべている。
明らかに違うはずだ……でも、それ以外を客観的に見れば、わたしたちは……確かに似ている。
なんと言っても、双子なのだから。
そして咲子は……そのわたしとそっくりな身体を、いつも佐々木のような醜く、不誠実極まりない男たちに喜んで差し出す。
そしてどうにもこうにも収まりがつかなくなったところで……わたしに相談し、その後処理をわたしがすることになる。
こんなことはこれまでに数え切れないくらいあった。
わたしは心の奥底から咲子を呪いながら……自分自身をも呪った。
妹に対する自分の甘さと、そして断ち切ることのできない、妹との身体の絆を。
わたしはいつもこうやって妹のトラブル解決に奔走した結果……理屈では説明のつかないこの感覚に囚われる。
それを追い払おうとすればするほど、頭の中でそれが鮮明な映像となり、皮膚感覚となり、激しい動悸となる。
突然、わたしの頭の中で鮮明な映像が再生される……その中で、わたしは裸だった。
わたしは咲子だった。
そしてそのそっくりな身体を、あのニコチンで染まった黄色い指が弄くり廻し、転がし、ほじり、つまみ、押し開き、探り当て、擦る。
「あっ……」
その感覚が あまりにリアルだったので、思わず人混みの中で立ち止まっていた。
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