マンガと映画の「恋は光」を観て【ネタバレあり】
※以下の文章では作中の重要な展開に触れますので、ご注意ください(ネタバレあり)。
※北代さん派です
映画「恋は光」を観ました。原作漫画も読了しております。
あらすじ
世界各国の刑務所の最重要警戒区画に収監されている「最凶死刑囚」たち…。その彼らがふと思った。
「恋を知りたいッ(略)
…そんな話ではありません。
「恋とはなにか」というテーマを、大学生の男女の四角関係(実質的には三角関係)の中で描いていく物語…なのですが、主人公のある能力が、物語を普通の恋愛モノとは少し違った方向へ持っていきます…。恋とは何かって知ったことじゃないですし皆80年後くらいにタヒねばい
主な登場人物
西条
主人公の男子学生。通称「センセ」。その生い立ちから、人間関係が希薄で言動も一風変わっている。物語の根幹を成すある特殊能力を持つ。一浪と思われる。(映画版では二浪と思われる)東雲さん
西条と同じ大学に通っている。その生い立ちから、人間関係が希薄で言動も一風変わっている(スマホも持っていない)。講義の席で隣り合わせ、成り行きから「恋というものを知りたくて」という言葉を西条の前で口にすることになり、西条を一目惚れさせる。映画版では、東雲さんが講義教室に忘れていった手帳を西条が見つけることが出会いのきっかけとなっている
北代さん
西条の小学生の頃からの幼馴染(大学での学年は上)。小、中、高、大と同じ学校へ進学している。西条とは長年の親友のような関係であり、「センセ」というあだ名で呼んでいる。生来の気質からなのか、高いコミュ力を持ちながらも、自分自身のことを含めて様々なことに達観しているかのような様子を見せる。東雲さんに一目惚れした西条を応援するが…。東雲さんと同じ学部。宿木 南さん
北代さん、東雲さんと同じ学部。いわゆる略奪愛を好む悪癖がある。北代さん・東雲さんの二人と関わりを持っている西条に対して、スイッチが入ってしまう。
…基本、この四人で物語は進んでいきます。シンプル…。
この三角関係に対しての、主人公以外の男性の視点が、基本的にありません。(西条の人間関係の希薄さ故と思われます)
東西南北の名を持つ登場人物が現れる恋愛マンガといえば「いちご100%」がありましたが…。
西条の特殊能力
この物語を普通の恋愛モノとはちょっと違ったモノにしている最大の特徴は、西条が持つ特殊能力(特異体質、気のせい、病気?)、「恋をしている人間が光って見える」です。
この非現実的な設定が一つあることによって、「恋とはなにか」というテーマの掘り下げができたり、この物語最大のある仕掛けができていると思います。
序盤の展開、構成、特tyo
ええいそんなことはどうでもいい、北代さん問題について語れ!
ということで本題に入りたいと思います。本題かよ。
原作マンガを読んでいて一番印象強かったのは(まあ誰でもそうだと思うのですが)、終盤で北代さんか東雲さんのどちらかを選ぶ、という場面だったかと思います。
…すみません嘘です、「今まで見た誰よりも…」の場面でした。
「光が見えない」ことの意味
第一巻の時点で、北代さんは西条のことが好きだけれども、西条からは全く光って見えない、ということがわかります。
北代さんの眼の前で「自分に対して光って見える女性は皆無」と口にした西条の言葉に、
と北代さんは思います。
そのため、北代さんの西条への思いは、「相手を大切に思いながらも、一線を引く」ようなモノになっていったかと思います。
北代さんと西条の子供の頃からの関わりは、お話が進むに連れて後追いで描かれていきますが、それぞれにとって(恋愛対象であるかどうかはともかく)互いは大事な存在であるということがわかってきます。
しかし、そういう感情を持っているはずなのに、その人独りだけ光が見えない、というのは、ある意味「特別な人」であり…。
個人的には、その時点で以下のように思っていました。
…から、恋じゃないから光らないというオチなのでは…と。
見えてしまっているが故に見えていない
西条は「恋をしている人間が光って見える」ために、一般的なコミュニケーションが取れなくなっています。
人間はニュータイプではないので、相互理解、あるいは歩み寄りのためには、何らかのコミュニケーションを取る必要がありますが、西条は相手の特定の感情を光として認識できてしまうので、例えば「互いの気持ちを知る過程」は、能力のない通常の人のそれとは大きく異なってしまいます。
相手がどう思っているか…が光って見えてしまう。
北代さんと長い間一緒に過ごしてきて、能力がなければあるいは気づけたかもしれない気持ちも、光っていない(正確には、西条からは北代さんが光って見えない)ので、西条にとっては「絶対にありえないこと」になってしまっている…。
こと恋心に関しては客観的に観測できるはずなのに、謎の例外が発生していることにより、すれ違ってしまう…という状況になっていました。
「今まで見た誰よりも 一番光ってて…」
物語の終盤、西条と同じ特殊能力を持つ(らしい)女子高生・大洲央(おおす なかば)の登場により、事態は一気に進みます。
大須さんから観た、西条と一緒にいる北代さんは、「今まで見た誰よりも 北代さんが一番光って」(見えて)いたのです。
西条は初めて北代さんの気持ちを知る…ことになります。
なぜ西条には見えなくて、他の同じ能力の持ち主には見えたのか、作中で東雲さんが推測はしていますが、本当のところはわかりません。
恋には二種類あって、西条が見えるのは「本能的な恋」だけで、大洲さんは本能的な恋に加えて(だと思うのですが)「学習による恋」も見える。北代さんの光は「学習による恋」によるものなので、西条には見えなかった…と。(映画では「学習による恋」をもう少し深掘りしているようでしたが)
恋には二種類ある、ということに腑落ちするようなしないような気持ちがするのですが、そもそもが非現実的な能力についての話ですので…。
何れにせよ、北代さんが「今まで見た誰よりも一番光って」いたことが、読んでいてとてもインパクトのある場面でしたし、心染みる思いがする場面でもありました。
マンガでは、大洲央が初めて西条と北代さんの姿を見た時に、嬉しそうな驚き?を見せる描写がありました。その描写だけでは、何に対してそう感じているのかはわからないのですが、最後の大洲央のセリフで、北代さんの光をみてそう感じていたということがわかりました。
ただ、このかんそうぶんを書きながら、原作漫画も読み返していたのですが、自分は「大洲さんが"今までの人生で見てきた中で"北代さんが一番光ってる」ということと思っていたのですが、もしかしたら「"今日の学祭で見た人の中で"一番光ってる」だったりするのでしょうか…。
とりあえず、この文章では「今までの人生で見てきた中で」ということにしておきます…。
追記:映画版では、「私が今まで見てきた中で一番」と大洲さんが述べていました
選択
ということで、北代さんの気持ちを知った西条は選択を迫られることになります。東雲さんか北代さんか…ではなく、北代さんとの関係をどうするかという選択です。
西条の結論としては、「お前(北代さん)は俺にとって特別 別格過ぎて付き合うことができない」でした。
男女がくっつくくっつかないは縁、タイミングもあるでしょうし、西条の出した答えと、それを聞いた北代さんの考え、答えも、作中の二人の話を聞いて(読んで)いると「まあそういうものかな」と納得もしました。
納得もしましたが、以下のようなことも、感じ、思いました。
<s>飲みながらする話か?</s>
西条、それを君は「恩」と言うのか…。
「今まで見た誰よりも一番光ってる」の意味を、本当にわかっているのか?
物語は、東雲さんと歩んでいこうとする西条の姿で終わります。
最終回の西条の東雲さんへのセリフが…。
西条と東雲さん、今後の二人の関係性を考えると、そして北代さん本人は目の前にはいないのではありますが…ある種当然の言葉ではあるのですが…。
…読み終えた後、「なんか…ちょっと…悲しいんだが…」と思ってしまいました。
個人的には、少し、モヤモヤとした気持ちを抱きはしましたが、強く印象に残るマンガではありました。
そして映画版
見る前に
漫画単行本の最終巻は2017年に出版され、5年後の2022年、映画化されました。
映画公開のプロモーションの一環として、原作漫画の一部(第3巻まで)が無料公開されました。自分は単行本2巻くらいまではリアルタイムで読んで、今回のプロモーションで続きの3巻までを読み、更に最後まで読みました。
読み終えて、「これは映画を見ないと…」と思う反面、「アレがまた繰り返されるのか…?」という気持ちと、単純に近場の映画館で上映していなかったため、視聴は先送りになっていました。
9月の連休があるので、「もう円盤化されたりしているのだろうか」と思いふと公式サイトを見ると、9/15から動画配信サイトで有料配信開始、とありましたので、観ようと思いました。
これはまさか
公式サイトを観た時に、キャスティングを確認したのですが…キャスト紹介が西条、北代さん、東雲さん、宿木さんの順番になっていました。
「こ、これはまさか…もしかして…」と思いました。せ、世界線が…
いやしかし…
原作漫画を読んでいたからこその疑心暗鬼
ということで、ある種の期待を抱きながら観たのですが、その期待をさせること自体がフェイントではないかと思ったり、何だか映画本編とは直接関係がないところで、ハラハラしてしまっている自分がおりました。
ただ、観始めて早い段階で「場面場面で、北代さんの反応・様子を、特別に描いているな」と感じました。
結末がどうなるにせよ、西条と北代さんの関係を描いていく映画なのだな、と思いました。
映画版と原作漫画の関係
映画版はどういう位置付けなのか。
もちろん、原作を知っている人、知らない人双方が楽しめる作りにはなっているはず。自分はもう読んでしまったので、「知らない人」の視線では見られませんでしたが…。
映画版は、単行本7巻分の物語を、上手く再構成していたと感じました。削りつつも原作に対して付け足されているいくつかの要素がとても良いと思いました。(監督自ら脚本執筆されていたようです)
しかしまあ、とにかく結末が気になって仕方がない。こういう見方でよいのだろうかと思いつつ、原作漫画のくさびが抜けませんでした。
映画版の北代さん
いくつかの山場の場面はもちろんなのですが、それ以外にも、本当の気持ちが表に出てきているように見える場面がいくつかあって、そこが強く印象に残りました。
(例えば、西条から、どうしても東雲さんを紹介して欲しい、と言われた時や、東雲さんのお宅で写真を目にした時、などです。他にも)
…山場の場面は心染みるものがありました…。
今更なのですが、こういった「ふと思いが一瞬顔に出る(仕草に出る)」といった描写は、実写映画ならではなのかなと感じました…。マンガや小説(アニメでも?)では、同じことをしようとしても意味が強くなりすぎるのでは(受け手の印象に強く残りすぎる)と思いました。
キャスティング
公式サイトを初めてみたときには、「マンガの実写化…どうなんだ」と感じていたのですが、実際に映画を見ると、中の人達とてもハマっていると思いました…。
あと、西条が何故モテるのか問題も解決ですね…。
観終えて
良かったです。円盤買います。その一言(二言)です。
ただ、原作読んでいたからこその、このかんそうだと思います。
原作と同じ台詞でも、意味は少し異なっている…。
…原作を読んでいたので、場面場面に対して、「これは原作をなぞっているだけなのか、それとも世界線変動に繋がる何かが…ある…のかもしれない!」と、やたらと深読みしてしまうというか…そんな感覚がありました。
原作を読んでいなかったらこんなに思い入れのようなものはなく、自分にとってこんなに印象に残る映画にはなっていなかったかもしれません…。
原作を読んでいたから却って結末が読めなくなった、と感じました。
しかし、自分からアプローチしておいてやっぱり止めました、は、それはそれで酷くないか、と思いました。東雲さんに対して…。
良かったな…
やっぱり映画館で見ればよかったなと思いました。(終わり)