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心象日記0131 花瓶に溺れる

花瓶の写真、自炊の写真をインスタグラムに載せる。一人暮らしを楽しんでいる風を装って、寂しさを紛らわしていた。本当に楽しかったら、クローズドなソーシャルメディアにあげないよ。画面の楽しい、という言葉は疑える。綺麗な花、なんて空々しいキャプションをつけて200人弱のフォロワーに送る。仲良くない人もいるし、別に私の暮らしを知りたくもない人が大勢いることもわかっている。送信した後は虚しくなる。あれは、虚構。楽しい虚構。

同じところで同じ学びを続けていると、風景は変わらず、でも私を囲んでくれる人は変わり続けている。同じ世界を共有する人が変わっていることを実感するが、私もあと一年くらいすればこの街を去る。にわかに信じがたい事実である。

憧れの人、素敵な人。それほど近づかなければ、好きでいられるのに、近づきすぎると失望してしまう。くるりの「ばらの花」の歌詞は、宝物のように仕舞っている。でも、人間はバラの茎みたいな存在だから、頻繁に抽斗を開けなければならない。

同じ世界で、違うメンバーに囲まれて5年ほどやってきたが、毎回同じ失敗をして、結局心を通わすことなく離れてしまう。同じ熱量でお互いを見るって可能なのか。疑心暗鬼になるくらい、この4年はうまく心が行き合わない。愛と執着の違いがわからない。人をpossessionに置き換えることなんてできないのに、できると勘違いしてしまう。ほんとうは、思い通りになんかなるはずはないし、予想から外れたところに面白さがあるのに。期待と寸分違わぬ現実が現れるはずなんてないのに。だから、ずっと失敗を続けている。たぶん、孤独を受け入れない限り、この状況は続くだろう。人間はバラの茎だから、その傷に耐えうる力が欲しい。それは、すなわち孤独への力。

好きという気持ちがわからない。知ることは怖いこと。知らないから好きになれる。知れば知るほど好きになることを、まだ理解できないのは若さゆえなのか、わからない。ときめくのは、知らないからなのか。

クリティカルに議論すること。それは楽しいけれど、日常はクリティカルな要素では構成されていない。クリティカルな議論においては唾棄される感情に支配される。論文を書く。どうにか乗り切る。
論文は書けても、感情をうまく統御することはできない。

浴槽でぷかぷか体を浮かせる。身体をうまく操れないのが却って心地よい。根無草、という言葉は否定的な意味を帯びるが、根無草でいることの心地よさは見捨てられている。そもそも、社会は自我を信じすぎている。自立した個。自助しろ、なんて。ぷかぷか浮かべないじゃないか。ちゃんと境界を作って、自らを枠の中に入れて、閉じ込める。(『思いがけず利他』に触発された)

たいていのことは、どうにもならない。意味づけでどうにかなるだけ。どうにかしようとすればするほど苦しい。もがけばもがくほど溺れてしまうように。考えていいことなんて、ない。論文を書くときだって、頭で一生懸命考えた文は大抵つまらない。一瞬のひらめきに、全てを持っていかれる。

まとまった時間が欲しい。分刻みのスケジュールは、心を摩耗させる。考えることしかできない。無になることができない。考えてロクなこと、ないのに。時間は分けないほうが、幸せである。ラップトップ、スマートフォンのスクリーンに示される時刻を見たくない。時刻を忘れるほど、何かに没頭している時間だけ、解放される。まーた、若林の受け売りをしてしまった。反復するまでもないが、没頭は人間を自由にさせる手段だ。私がかつて、失恋から立ち直れなかったとき、ひたすら床を掃除して、Twitterに文字を綴っていた。そうじゃなければ、一生かつての恋人に思いを馳せていただろう。

理想なんてなくていいのかもしれない。理想があると、息が詰まる。理想なんてないほうがいい。さようなら。全てのしがらみよ。

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