「ただ書く」ということは精神論でも方法論でもない。
ただ書くこと、ただ書くこと、ただ書くこと、ただ書くこと。
言葉にしたがって、キーボードを打つこと。
あるいは、ペンを動かすこと。
あるいは、話すこと。
それをするだけ。
逆に、それ以外のことをしないこと?
「やり方」でもない。
決まった一つのやり方はない。その人の体、その人の持っている道具、その人の心、それぞれに、「ただ書く」ことはある。
「ただ書くこと」はこれこれのことです、と具体的にいうならば最初の「わたしのやり方」であることを断った方がいいだろう。
「心の持ち方」でもない。
決まった一つの心でもない。達成されるべき、素晴らしい気持ちでもない。
どんな気持ちの時にも書くことが、「ただ書く」ことだと思う。
さみしいときも、
うれしいときも、
幸福なときも、
不幸なときも、
「ただ書く」ことはできる。
わたしはさみしい
わたしはうれしい
わたしは幸せ
わたしは不幸だ
書けない時も、
私は書けない、とかく。
飛躍。
さみしいわたしと、
うれしいわたしと、
幸せなわたしと、
その他諸々のわたしの限りない感情と、
わたしがわたしと思っているゆるやかな概念の外側にある、
「わたしではないわたし」と、
この、ただ書いているわたしが、
「ただ書く」ということで、集約され、その違いはどうでもいいものになる。
逆に、
「ただ書く」ということが、
さみしいわたしと、
うれしいわたしと、
その他諸々のわたしたちを、
わたしを、わたしではない誰かへと解き放っていく。
と、思う。わたし。
方法論でも、精神論でもない。ならば、どうやって書くことを疑って、信じて、どう書かれるかわからない、どう書けばいいのかわからない、「ただ書く」ことにわたしは納得できるだろう。
「ただ書く」ことは、いいことか? わるいことか?
「ただ書く」ことに、何か意味があるか? ないか?
よくわからない。
よくわからない、が、
わたしは、その逡巡さえも、「書いて」しまっていることに気がつく。
わたしは、書くことから考えた。
でもたぶん、息をすること、瞬きをすること、心臓が動くこと、あくびをすることも、きっとそうだ、と思う。
それらは全て、わたしの体に近い。
そして、いかなる「方法」とか、「精神」とかに、規定されず、
規定される前に、
ただ、息をして、瞬きして、鼓動して、あくびする。
規定される前から、そうしてた。
そういうふうに、わたしは書きたい。
自分の言葉
自分の言葉
自分の言葉
自分の言葉
自分自分自分自分自分
自分自分自分自分自分
自分の考え
自分の考え
自分の考え
自分の考え
わたしわたしわたしわたし
わたしわたしわたしわたし
わたしが書くことって、わたしのことばかり。
わたしが書くことって、わたしのことばかり。
わたしが書くことって、わたしのことばかり。
それでいいのかな。
それでいいのかな。
それでいいのかな。
それとも、ただ書くことには、わたしもいらないのかな。
迷うことが怖いから、
いや、迷うことそれ自体を書くために
いや、いや
書くことから、「迷うことそれ自体」があるのなら、
ただ、書いていればいい
書いていれば、いいってことにならないかな。
疑うつもりでさいしょっからわかってたんだ。
こう書くつもりでこれを書いたんだ
「書くしかない」