「わたしではないわたし」制作日記2021/01/11
最近の話……。となんとなく書き出して変な気分になる。書き始めるときは「最近」から始めようとした自分はなぜだろう。「なぜ」と問いかけるのはなぜだろう。これも、なぜという問いかけだ……。これだけで文章が終わる。
書きながら考えていた頃は、「なぜ」と問い掛ければ好きなだけ文章を続けることができた。「なぜ」と問いかけることは後に続く文章がある、と確信を持つことだから。「なぜ」と問いかけたら何か出てくるから「なぜ」と問いかける。
後に何も出てこないとわかっていたら「なぜ」と問いかけるだろうか。それはわからない。
何も後になかったとしても「なぜ」と問いかけることで、あたかも何か理由があるように思うことができる。「なぜ文章を書くのか」「なぜ、成功する人は鼻が高いのか」「なぜ、花は庭に咲くのか」「なぜ、マウスは白より黒の方が軽く感じるのか」
というわけで、なぜの乱用はいかにも危うい。「なぜ」だけで文章が一つ作れる。なぜさえあれば、毎日書いていられる。
そんな仕組みで、毎日書いていたのだと思う。
今はどうしているのかというと、思いつきというリソースである。今、思いついた、という根拠さえあれば無限に書き続けられる。体験は否定できないから。私の個人的なものとして、他の人は口出しできないから。
「今、私は鼻が痒い」「今、私は成功する人は鼻が高いと思った」「今、私の太ももの裏側の筋肉が少し痺れた」「今、私は太陽は黄色だと考えた」「今、私はマウスを頭に乗っけて歩く最良の方法を思いついた」
というわけで、「今」の乱用はいかにも危うい。ええ、「今」さえあればこれも毎日書くことができる。
「毎日書く」の仕組みには、そんな言葉のメカニズムが働いている。毎日書いていなかった頃は、「毎日書くってすごい」と思っていたが、毎日書いている今は「毎日書くことで書けなくなっているものもあるな」と思っている。「毎日できる」ということは、毎日できることしかしない。継続できるような刺激が弱めの、飽きが来ないようにいくらでも取り替えられる柔らかくていい加減な考えが必要だ。
どれだけ書いてきたか、どこまで書くつもりなのか。未来の動作にも「書く」はつながっている。ボールを遠くまで投げようと思ったら、強く投げなければいけない。投げる瞬間は一瞬だが、その一瞬に込める力で将来ボールがどのぐらい飛んでいくかが決まる。それと同じ考えで、「毎日書く」のならば書き始めた瞬間に、毎日書くことを計算して、書いている。私は明日に余力を残している。毎日かける話題を選んでいる。「なぜ」とか「今、私は……」とか。
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