2018年12月福島、廃工場〜加倉地区フレコン置き場
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<続き>
前回(10月)歩いた中上ノ原団地と同じ高台にある田尻地区。そこにグーグルマップを見ていてみつけた大和電線工業株式会社福島工場はある。避難指示が解除され、再開している工場も僅かだがあると聞いていたので、ここはどうなのか見てみようと思った。
外観から、すぐに廃墟であることがわかった。
開いている窓から中を撮影する。
(窓から撮影。そのまんま)
ここも開いていた。震災直後のままというより、何者かが侵入し荒らされたようにも見える。
ミネラルウォーターのペットボトルの山。原発事故後に従業員に配られたのだろうか。
ついさっき帰還困難区域を歩いていた時よりも気分が沈んだ。
…何が「復興した福島」だ。避難指示を解除すれば「復興」なのか? 「日常を取り戻し」たのか?
(この車は震災後7年9ヶ月、ずっと工場を見てきた)
(やや打ちのめされ、工場を後にする)
(線量は常に0.6μSv/h以上ある。放射線管理区域だ)
荒れ果てた家。
見たところ地震による崩壊はみられず、原発事故さえなければ今も平穏に暮らしていたはずだ。
浪江町加倉、今神方面へ向かう。
今神にもグーグルマップで見て気になる屋根があったので、向かうことにした。
この道の右側では落ち葉を焼いて焚き火をしている人がいた。禁止のはずだが、まさかそんなことは言えない。
視線を気にしつつ、マップで気になっていた屋根の施設の入り口へ。
気になった施設は福祉施設だった。ひまわり荘。「救護施設」として位置付けられている。僕の専門の高齢者介護とはまた違うが、似たようなものだ。どうも僕は職業柄、こういった施設には鼻が効く。
経済的問題や身体や精神に障害を抱えた人を支援していた施設。今は施設ごと白河の方へ避難しているという。
震災当時の混乱が想像出来る。津波で流されてしまった通所施設の話や双葉病院のエピソードなど、利用者や家族の苦労も勿論のことだが、職員の苦労、苦悩はどれほどだったかと思うと切なくなる。職員のプロ意識が高ければ高いほど、自らを犠牲にして利用者を支えることになり、心身ともに疲弊していくだろう。医師や看護師は勿論だが、低賃金で働く介護士でさえプロ意識が要求され、そのプロ意識ゆえに津波で命を失った人もいた。わずか時給数百円で働きながら、利用者のために命を失った介護士がいると思うと、僕は今でも涙が堪えられない。
(しんみりしながら加倉地区を目指す)
この写真の向こうは帰還困難区域のはずだが、なぜかこの方角からずっと犬の吠える声が聞こえていた。まさか人が住んでいるはずはなく、ひょっとするとこのエリアに捨てられた犬が野犬化しているのかもしれない。酷い話だが、福島の避難指示が出ているエリアに動物を捨てに来る人が後を絶たないと聞く。
国道114号を抜け、フレコン置き場へ。ここを少し左に行くと帰還困難区域となり、閉め切った車のみが通行可能となる。
(広大なフレコン置き場)
いくらシートで隠そうと、禍々しさに変化はない。この光景を果たして首都圏のどれだけの人間が知っているのか。
こういった写真をSNSにあげただけで、「それは帰還困難区域の話!避難指示解除された場所にそんなところはない!」とヒステリックに否定する輩が必ず出てくるが、お前らまず自分で足を運んで確認してこい。避難指示解除された場所にいくらでもフレコン置き場はある。福島市だって二本松だって、「日常を取り戻した」と言われる中通りにだってフレコンバッグはいくつもある。日常の中に非日常が溢れている。
その時その時の都合に合わせて、フレコン置き場は移動する。見せたくない人に見られないように。中間貯蔵施設や減容化施設の建設は既に始まっていて、フレコンバッグの移動も始まっているが、東京五輪には間に合わないと言われている。五輪の際は、いったいどこへ隠すつもりだろうか。
広大なフレコン置き場を後にし、比較的交通量の多い国道114号ではなくその一本裏の道で駅へ向かうことにする。
<続く>
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