【2024年2月、双葉、大熊、富岡取材その8 線量計をぶら下げた女性に声をかけられる】
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太陽光発電所になってしまった大熊中学校跡地のある高台から、南へと坂を下る。大熊中学校の近くには東電の寮が2つ、小入野寮と妙見寮があった。妙見寮だけが解体され、今は小入野寮が残っている。双葉でも、いくつか東電の寮は残っているが、いずれ除染をして使うつもりなのだろうか。一般の家や公共施設など、浜通りでは様々な建物が次々と解体されかつての風景が消えていくなかで、東電の社宅だけがいつまでも荒廃することなく当時のまま保たれていることには、大きな違和感を感じている。
大熊中学や東電の寮がある高台から阿武隈の山々を見渡して見える数多くの鉄塔は、全てが東京と繋がっている。福島の自然と環境、人々の暮らしを破壊しながら、あの鉄塔を通って電気が首都圏に供給されていた。電気を通じて福島と首都圏は繋がっている。原発事故当時は放射性プルームも東京まで飛んできた。しかし愚かな人々は、「放射能がくる!」とのAERAの全くもって正しい表現をデマと呼びバッシングし、そして福島で起きている史上最悪の人災を完全に対岸の火事として無視を決め込み、計画停電の闇の中でキャンドルを立てて「LOHAS」なまぼろしに酔いながら、実害を風評と言い換え忘却の彼方へと消し去ろうとしている。
高台を降りかつてのため池と公園があった場所へ向かうが、解体、および除染のために立入禁止だった。ため池の水はテレ東の番組ばりに「池の水全部抜きます」と空っぽになった。底にはどれだけの放射性物質で汚染された汚泥が溜まっていたのだろう。周囲の家は片っ端から解体されており、かろうじて数軒残っている家も多くは解体を待つだけだ。
トイレ風呂食堂が共用でそれぞれに個室がある学生寮のような建物も、荒れ果てたまま、まだ残っていた。ここでは、どんな生活が送られていたのか…廃墟を見つめながら、原発事故前の暮らしに思いを馳せた。
その後、県道251号(小良ヶ浜野上線)に出たところ、出会い頭に一台の軽自動車と遭遇した。その車は、通り過ぎた後にバックで引き返し僕の後ろに回り、そのままゆっっっっっくりと僕を追い越し、脇道へ入るとUターンしてきて僕を待ち伏せしていた。そして、待ち構えてから助手席から女性がばっと出てきて僕に尋ねてきた。
「さっきから何を撮影してるんですか?」
「え、町の様子です」
「町とかに頼まれて?」
「いえ、そういうわけではないです」
「ずっと歩いて撮影してるんですか?」
「はい、ずっと歩いて…」
「そうですか、気をつけてくださいね」
そう言って去っていった。女性の首には、日立アロカ製のPDR-111がかかっていた。
僕は、取材で双葉郡を歩くときは常に線量計を携帯しているが、僕以外でそんなことをしている人は、東京新聞の記者さんと飯舘村のIさん以外に見たことがない。偶然出会った一般の人で線量計を、しかも高額のPDR-111を所持している人を見たのは初めてだった。もう少し話してみたかった。
そういえば、前日夜のNHK福島で、熊町小学校に置き去りにされていた子どもたちの私物持ち帰りのために、2月2日〜4日の週末3日間、学校を解放しているというニュースがあった。そのニュース映像に映っていた女性教諭になんとなく似ていたのを覚えている。ちなみに小良ヶ浜野上線をさらに東へ進むと、「熊町小学校入口」と書かれた三角屋交差点がある。
見慣れた廃墟や更地を眺めつつ六国へ向かう。途中、どこからか大きな声が聞こえる。周囲を見回してもよくわからない。どこに誰がいるのだろう…ふと上の方から聞こえたので、顔をあげてみると、鉄塔から三人の人がぶら下がって作業をしていた。
震災前より数十倍高い放射線量の場所で、あんな高いところで危険を冒して仕事をする人たちがいる。その一方で、その労働力を使い回す人たちもいる。その差は何なのだろう。
<続く>
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