2020年3月福島取材⑥/避難指示解除から3年
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藤橋不動尊より、6国を渡り、苅野小学校を目指す。途中、団地の廃墟もあるようで、少し見てみようとも思った。
賃貸の看板は出ているが、フレコンバッグが置かれており、解体されるのかもしれない。
除染のやり方でも、解体前の除染か解体後の除染かで復興庁と地元の人では揉めていると聞く。解体して新築、あるいは更地で売るつもりなら、解体してから除染しろと考えるのが普通だろう。しかし役所は“お役所的対応”に終始する。
西内食堂。現場作業員で賑わっていそうだ。食べてみようかなとちょっと思う。歩いてきたと聞いたら、驚くだろうなあ…
家庭菜園にしては規模が大きい。試験栽培か出荷されるのか知らないが…農家は皆、土地から作物へ放射性物質が移行しないように様々な手段を講じている。そんな努力を、“風評払拭”などという「実害」を無視するような言葉で表現して欲しくないし、また、この土に直接触れて作業する農家の人の健康にもちゃんと留意してほしいと思う。しかし、「放射能安全」な人たちのこの問題に対するお決まり文句は「農民連は共産党だから」「賠償金目当て」。連中がいかに非道で党派性だけで物事を語っているか、垣間見えるだろう。
高台から見える浪江の風景は美しい。
昨年11月に行った浪江高校が見える。
更地。ここも解体されたばかりか。同じ場所をグーグルマップのストリートビューと比較してみると、かつて暮らしがあった場所が根こそぎ剥ぎ取られたことがよくわかる。
工場廃墟。パッと見、敷地内は除染されたように見える。しかしこの建物はそのままだ。解体されれば“放射性廃棄物”となる建物。
北伸産業株式会社浪江工場。このまま廃業だろうか。補償はどうなっただろう。「棄民政策」のこの国で、庶民は守られない。
野良梅。かつてはここにも家が建ち、これも誰かの家の梅だった。
更地になった場所に太陽光パネルが並ぶ。ここで作られた電気はどこへ運ばれるのか。
「放射能安全」「福島差別」そればかり強調する人に限って、太陽光発電を悪者にしたがる傾向がある。確かに太陽光パネルは劣化すれば再利用はできないし、そのために山を切り拓くことは環境破壊につながる。しかし、かつては田畑が広がり、豊穣の地であったこの場所を汚染し、太陽光発電用の土地へと変えさせたものは何だったのか。ここで暮らしていた人たちの生活を一変させたものは何だったのか。
忘れること、なかったことにすることと前を向くことは同義ではない。
団地廃墟。
当然ながら誰一人いない。避難指示解除から3年、ここは刻が止まったままだ。
毎時0.45μSv。高くはないが低くもない。首都圏なら除染対象だ。
(公民館)
どこからか入り込んだ落ち葉が室内に散乱していた。
窓には動物の足跡。
この団地の隣の敷地では、一軒家の解体作業が行われていた。そのための作業員がいたから若干雰囲気は違ったものの、これだけ大きな団地で誰一人いないというのが、どれだけ異様な光景か想像がつくだろうか。かつて浜通りの避難区域を「ゴーストタウン」と呼び辞任した大臣がいたと思うが、その比喩は決して間違いではない。あの震災を経験した日本中の全ての人々が、この町の空気を体感すべきだと思う。これは“災害”ではなく、“人災”が招いた。
団地廃墟を後にする。
理容店。ここは営業していた。主に現場作業員相手だろう。この周辺で帰還している人は少ない。
場所によっては毎時0.6〜0.8μSv、そんな場所で、普通に作業着で解体業者が働く。大手ゼネコンのお偉いさんや直接雇用の人たちは排気弁付きのマスクで個人線量計で被曝量を管理しつつ働くが、下っ端の作業員はめんどくささもあって、帰還困難区域でさえ使い捨てマスクに手袋程度で働く。防護服も線量計もタブーとなった地上波のテレビでそんな姿ばかりがニュース番組で放送され、多くの人が「防護服いらない」「線量は下がったから線量計いらない」そんな風に勘違いして、知ったかぶりで物事を語る。
常磐線全通で夜ノ森、大野、双葉駅を歩いて、最も驚いたのは線量計を持つ人の少なさだった。「特定復興再生拠点区域」として除染が優先的に進められたからといって、一部しか除染は行われてないし、除染された場所でも信じられないような高い数値が計測されている。あくまでもこの3駅は「帰還困難区域」で、あくまでも「立入規制緩和」であり、「避難指示解除」ではない。
話が脇道に逸れた。
フレコンバッグが見えてきた。
<続く>
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