話すこと。語ること。そして歌うこと。
「話」というのはだいたい普通にあったことを言っている。「語り」になりますと筋が出てくる。そして「歌」のほうまでいってしまうと、普通の人間関係から離れてくる。
(略)
普通話をしているときよりも語りになったほうがちょっと自我のコントロールが弱まる。歌になるとますますーーこの歌というのはたんにだれかの歌を歌うというのではなくて、歌い上げるとか、そういう場合を考えるとわかると思います。このようにずうっと並んでいる。
そしてこれらは人間にとってはどれも必要ではないか。
引き続き読み続けている河合隼雄さんの『こころの最終講義』の中の一節。
話し→語り→歌いの順で、自我のコントロールが弱まるという話は、自分の仕事と通ずる。
もっと言うと、僕の仕事は一貫して、自我のコントロールが弱まったときに現れる「もの」を相手にしているんだな、と思った。
『あなたのうた』では、最初に15分「未二観」(みにかん)という形で話を聞かせてもらう。
話し手は、思いつくままに語り、聞き手は、言葉を一字一句たどるだけ。
こうした特殊な形式にすることで、僕に対して「話し」てもらうのでは出てこない、その人独自の「語り」が現れる。
そこには口をはさんだら見えてこない筋が見えるし、語りが乗ってくると、その人ならではの「歌いまわし」も現れる。(そのフレーズを僕は「詩のようだ」としばしば思う。)
『こころの最終講義』の中で、河合隼雄さんは「カラオケでみんなの前で歌うときに私は緊張します」という例を挙げているけれど、ここでいう「歌う」は、そうした緊張とは別のところにある。
語って、語って、その語りに熱が入って「歌」になってしまうような「〇〇さん節」と名付けたくなるような語り方がどんな人にもある。
『歌い手冥利』という仕事でしていることは、参加してくれた方にそういう歌を唄ってもらうことだ。
「音が外れたらどうしよう」「リズムがずれたらどうしよう」といった不安をコントロールするのではなく、むしろ心配なまま唄ってもらう。ただそのままに。そうすることで、語るうちに熱を帯びて思わず唄ってしまうな歌が現れる。
その人ならではの、その人にしかできない表現。
それはどんなものでも僕たちの胸を打つ。
これらに限らず、僕の仕事は、日常生活でかかっている自我のコントロールをゆるめ、そのときに現れるものを対象としている。
それは、とても魅力的だからだ。
とはいえ、冒頭の引用文の最後には、こんな一行がある。
そしてこれらは人間にとってはどれも必要ではないか。
話すことも、語ることも、歌うことも。
そこに優劣はなく、どれも必要なのではないか。
話したり、語ったり、唄ったり、全部がバランスよく使われていることの健やかさ。
そのバランス調整のために、僕の仕事はあるのかもしれない。