ふるくて新しい集いかた。
今日、知人の田んぼの稲刈りに参加させてもらった。
農業にまったく縁のなかった僕は、稲刈りも初体験。
ここでは「手刈り」といって機械をつかわずに稲を刈る。
やってみると、なるほど根っこからザクザクとよく切れる。
そうして刈った稲は、木でつくった物干し竿みたいなところに干されて、茅葺き屋根みたいになっていた。
10月も後半なのにいいお天気で、ちょっと暑いくらい。
作業の途中には、具だくさんのおにぎりやさつまいも、甘くておいしいみかんなどが振舞われ、それをほおばりながら、いろんな人と話ができた。親に連れられて来ていた子どもたちは、泥だんごをつくったり、虫をつかまえたりして遊んでいる。
田んぼは広い。コロナでも十分な距離をとることができるし、換気もばっちりだ。みんなで稲を刈り、おしゃべりをしながら過ごすひとときは、なんとも健やかだった。
おととい、地域のバーベキューに呼んでもらった時にも思ったけれど、こういう素朴な集いが自然にひらかれるのっていいなと思う。
この日は音楽イベントの後だったけれど、一仕事終えたみんなが集まって、労をねぎらいつつ歓談する。ごく当たり前の光景だけれど、自分にとって初体験で、いままでどこで生きていたんだろうと思わされた。
今日の業(わざ)を なし終えて
心かろく 安らえば
風は涼し この昨夜
いざや楽しき まどいせん
この歌詞は、この町で夕方五時になると流れる『遠き山に日は落ちて』。
「まどいせん」というのは「団らんしよう」という意味らしい。
この数日、僕が南畑で経験したのは、この「まどいせん」で、そこでは仕事が交流の一部になっていた。
いま改めて見ると、弥生時代みたいな写真だなと思う。
きっとその頃の「仕事」というのは、こんなふうに人と人とがつながる媒体だったのだろう。
一瞬ふれて二度と会わないような仕事ではなく、この日この時この人に会ったことが膨らむような仕事。言葉にすると大げさになるけれど、それはどこにでもある、素朴な稲刈りの時間の中にあった。
でも、こんなふうによい集いになったのは、きっと呼びかけている人がいいからだろう。バーベキューも稲刈りも、まん中にいる女性がとてもすてきだった。
たくさん勉強もしたし、就職・転職もしたけれど、いま「仕事ってそういうことだったのか」と学んでいる気がする。テキストになっているのは、昔から(それこそ古代から)ずっとあった人の営みだ。そこでは人と仕事が切り離されておらず、むしろ相互に助け合っているように見える。
この感じにふれる機会が、なんと40年以上もなかったのだ。
そう思うと、どこで誰と仕事をしているかによって、働くことも集うことも、生きることそのものの意味合いさえ変わってきてしまうように思えた。
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