人のせいにすることについて。
今日の記事は、ややこしくなる気しかしない。
「人のせいにするな」
子どもの頃から叱られるときに何度も聞いてきたフレーズで、いまでも夫婦げんかをするときに言われたりする。
しかし、よくよく考えるとこれ、難しくないか、と最近特に思っている。
「人のせいにするな」
と言っている当の本人が、自分の責任から逃れるために言っている場合があるからだ。
何度も引用しているけれど、この記事で取り上げた心理療法家・河合隼雄さんの講演で語られる不登校の男の子の話。
学校に行かないのは「子どものせい」ということにして、父親は河合先生に「学校に行かせるボタン」を教えてくれ、と話す。
でも、そうはいかない。
これはできないんです。
なぜかというと、子どもは生きていますから。
子どもは生きているってことは、命をもってるってことは、ワンタッチで動かすことができないし、命をもったものと命をもったものが遭うっていうことは、もう関係ができてくるわけです。
不登校は、父親も含めた家族全体の、関係の中に「コンステレート」している。
不登校という現象によって、全体にいま、なにが「コンステレート」しているのか。
その上で、父は、息子は、他のメンバーは、それをどう生きるのか。
この見方に立つと「父のせい」「息子のせい」という言い方が成り立たなくなる。しかし、父と息子それぞれにしなければならない責任はある。
出来事が現象するとき、それは当事者全員を包含して現れる。
それぞれがそれぞれに、その出来事に対して果たす責任を割り振られている。だれかだけが蚊帳の外、ということはない。
「人のせいにするな」
というとき、そこには「他人に頼らず、自分一人でなんとかしなさい」というニュアンスを含む。
でも、出来事が関係から表出されるものだとしたら「自分一人でなんとかしなさい」なんてことがあるだろうか。ぼくはないと思う。
だから「人のせいにするな」というとき、本当に伝えたいことは、おそらく、こういう言い方になるはずだ。
「この問題におけるあなたの責任を果たしてほしい」
そこには「あなたにはこの問題を変えうる力がある」というニュアンスがこもる。
そして、それは「人のせいにするな」と言っている「あなた」も含んでいる。
「私はこの責任を果たす。だから、あなたはこの責任を果たしてほしい」
「人のせいにするな」と言いたい場面において、ぼくたちが言えることは、本当はこのようなことのはずだ。
けれど、いったいどこまでが自分の責任範囲なのか。
それを確定するには、お互いに協力して「いま、なにがコンステレートしているのだろう」と見極め、話し合う必要があって、やってみるとわかるけれど「責任」の問題を含めて、これをやるのは相当大変である。
というわけで、ややこしくなりそうだなと思って書き始めた記事は、やっぱりややこしく終わる。
でも、たとえややこしくなろうとも、誰かを指差して「人のせいにするな」と叱責する場面が「それぞれの責任を果たそう」というふうに変わっていったらいいなと思う。