スターリング君の成熟。
この夏、私たち夫婦は毎朝『あらいぐまラスカル』を観ている。
このことは前にも書いたが、
回が進むごとにつくづく感心するのは、ラスカルの飼い主、スターリング・ノース君の成熟ぶりだ。
公式ホームページには、
動物が大好きな11歳の少年。勉強もできる優等生だが、正義感が強く、ケンカにも立ち向かう勇気をもっている。
とあるが、とても11歳には思えない。
第24話「走れ走れぼくらのカヌー」で、子どもだけでカヌーを漕ぎ、テントを張って一泊したのもそうだが、特にすごいと思ったのは、第26話「森と湖の夏まつり」において、ラスカルと別れ、森に放すことを誰からも言われることなく決断したことだ。
全52話あるこのアニメ。僕はてっきり、終盤になって周囲(主に大人)からの「飼えない」圧力が高まって、泣く泣くラスカルとお別れするのだと思っていた。それがちょうど半分の、こんなところで自分から別れる決意をするとは。
そこにはどこまでもラスカル目線でものを考える姿勢があった。
檻に入れられてしまう街の生活よりも、森の中で自由に遊びまわり、ほかの動物たちと仲良く暮らした方がきっといい。たとえ自分がどんなにさびしくても。そう思ってスターリングは「一番の友だち」であるラスカルと離れることを決めるのだ(結果的に、この時はラスカルと離れることにはならないのだが)。
それを見守る大人たちもいい。というか、大人たちがスターリングたちにおおらかだからこそ、彼らの成熟が早まっている気がする。
例えば、スターリング父は、子どもだけでカヌーを漕いで島の奥地に行く(しかも一泊する)というのに、心配する様子はみじんもない。それでいて、スターリングの気持ちの変化を繊細に感じて、ここぞという時にはきちんと声をかける。(スターリングがラスカルを森に置いてカヌーを漕ぎ出した際、必死に追いかけるラスカルの様子をみて「父さんやめるよ」と言ったところは特によかった。)
スターリングたちが訪れるホテルの従業員カールも、子どもたちが熊や鹿といった動物たちと遊ぶことを勧める。先のキャンプの際、カヌーの漕ぎ方やテントの張り方をスターリングに教えたのは、このカールだ。彼は子どもたちに冒険を促す。
時代、ということもあるのだろうか。この作品は 1977年、いまから40年ほど前に製作されている。当時の子どもたちは、たとえケガをするようなことがあってもやりたいことができ、大人たちからもっと放っておかれたのかもしれない。
いま「プレーパーク」(冒険遊び場)という、子どもたちがしたいことをできる遊び場づくりが広がっている。
ここでの標語に「ケガと弁当は自分持ち」というのがあるが、そんなふうに少々ケガをしても、したいことをさせてもらえる環境(重大なケガにつながるものは「ハザード」といって、大人たちによって避けられている)がラスカルの頃には、ふつうだったのかもしれない。
その後40年の大人たちの関わりの中に、子どもを安全な場所で守ろうとして、かえってその成熟を妨げたところがあったとしたら。
僕らが当たり前だと思っている「大人」としての反応の中には、子どもが真に人間になるのを妨げているものがあるのかもしれない。