どのくらい怖れるか。
うちの近所には、コンビニが三軒ある。それぞれ別の系列の店だ。
今日、そのうち一つの A 店に行ったら、トイレが使えなくなっていた。感染予防のためだという。ちなみに、その店では漫画の立ち読みはできる。
用を足したかったので、困った僕はもう一件の B 店まで歩いた。そこではトイレは問題なく使えた。ジェットタオルも使えて驚いた。しかし立ち読みは「ご遠慮ください」とあった。
近所にあるもう一件 C 店も立ち読みはできない。僕は立ち読み好きなので、C に行くことは少ない。今日の時点でトイレが使えるかどうかはわからない。
同じコンビニでも、こんなに対策に差がある。
同じように、僕ら一人ひとりの中でも「どのくらい怖れ、行動するか」は違っていて「こうすればいい」というのは定まっていない。
とにかくたくさん怖れればいいかというと、そうでもない。コンビニだって商売があるし、個人にしても完璧な対策をしようと思ったら、一切行動しないことになってしまう。
また、コンビニが難しいのは、個人個人の「どのくらい怖れ、行動するか」に加え「どう行動したら、適切に怖れているように〈見える〉か」という他人の目が加味されることだ。
他の人からみて、適切だと見られたい。しかし、商売が機能しなくなるのは困る。そう思うと、ますますどう行動すべきか、決めるのが難しくなる。
もしかしたら、個人にもそういうところがあるかもしれない。「こんなふうに行動したら、軽率にみられるかしら」と思って行動を控えること、ありますもんね。
怖れすぎれば臆病者と思われ、怖れなければ愚か者と思われる。最悪の事態を細かく想定できる人はもてはやされ、一切怖れないと言い放つ人ももてはやされる(だいたい、もてはやされるのは極端でわかりやすい人だ)。
そこまで極端でない僕たちは、誰かより怖れ、誰かより怖れない中途半端な立ち位置で宙ぶらりんになっている。
そんな状態に不安になって、いま、パソコンを開いて情報をとろうとすると、スッキリしたい人たちによる「私はこう思う」という意見が無数に見つかる。けれど、それらは相反することを言っているので、読めば読むほど混乱が深まる。
結局なにをどう怖れ、どう反応し、どう対処するかは、ひとりひとりのさじ加減にかかっている。そのさじ加減の総体が「いま」だ。
思えば、今回のウィルスに限らず、なにをどう不安がるかは、人それぞれだ。
たとえば、お金のつかい方がそう。宵越しの金を持たない人もいれば、ぜんぜん遣わず貯め込む人もいる。どっちがいいというわけでもないし、多くの人はその「あいだ」のどこかにいる。
そうして「あいだ」の人たちが話し合ったり、けんかしたりして、お互いの「ほどほど」を見つけていく。
そう思うと、感染が気になっているいま、大切なことは、意外にシンプルなことかもしれない。
話して、聞いて、いっしょに考えること。
そうした話し合いを重ねて、自分たちにとっての「ほどほど」を見つけていくこと。
でも、それがいっちばん難しいんだよなぁ。
太古の昔から、人はその「ほどほど」が見つけられずに争い、傷つけ合っている。