ウソをつき続ける私たち。
ウソをつくのは、よくないこととされている。
しかし、僕らは日常的にウソをつき続けている。
この本を読んで、そんなことを考えた。
(アマゾンだとどえらい値段ですが『日本の古本屋』などだと、安く入手できます。)
この本はいくつかの、裁判沙汰になったウソの例を紹介しながら「私」の成り立ちに迫っている。そのうち、小学生の少女が家庭教師のわいせつ行為をでっち上げてしまった時のウソのつき方が、僕にとっては身におぼえのあるものだった。
僕は小学生の頃、よくウソをついていた。そのうち、いくつかはかなり大ごとになった。一つは小学三年生の頃、ゲームソフト買いたさに家のお金を盗み、それを追及されてついたウソ(どんなウソだったかは覚えていない。たしか「お金が落ちてた」とか言ったんじゃなかったかな)。もう一つは、同じ歳にいたずら半分で工場に石を投げ入れガラスを割り、翌朝、学校のホームルームで「やった人はいないか」と担任の先生に問われたときにしらばっくれたこと。
どちらもウソが露見した後、とんでもなく怒られたし、工場のガラスの件では、校長室まで呼び出され、転校するきっかけにもなった。担任の先生の前で正座させられ叱責されたときには、怖すぎて途中で失神した。
そんなふうになるのになぜウソをついたかというと「怒られるのがこわかったから」だ。小学生の少女が裁判沙汰になるまでつき通そうとしたウソも同じ動機だった。大人(主に親)に怒られること。それは子どもにとって一番こわいことだ。
だから子どもは「いい子」を演じる。怒る大人が怖ければ怖いほど、その演技は強迫的になる。
じゃあ、大人になってからウソをつかなくなったかというと、そうでもない。むしろ、大人の世界は小さなウソに満ちている。
たとえば、僕がバイトをしているスーパーには、ずっとアナウンスが流れているが、大してお得でもないのにとてもお得であるかのような言い回しが続く。CMの中でにっこり微笑みかける美人たちの笑顔だってウソだし、ここで書いた
商売の現場にあふれる「どなたでもお越しください」だってウソだ。みんなお客さんのためを思う「いい人」のふりをしている。そして、映画が虚構だと了解しているように、僕らはそれらがウソだとわかって暮らしている。
逆にウソをつかなくていい場所もある。僕の場合、それは気心のしれた人といるときだ。奥さんといる時にもそう。思っていることを思っているままに言えて、聞けるのは風通しがよくて気持ちがいい。
『私のなかの他者』を読みながら、そんなことを考えた。
そして気づいたのだけれど、僕が一番ウソをつくのは、仕事をしていて、それがいやになった時だ。「この仕事はしたくない」。これは「言ってはいけないこと」なので、なんらかウソをつく。会社をズル休みするときには「体調が悪い」と言ってみたりするし、退職するときにはもっともらしい理由をつける。もう辞めるのに「いい人」を演じることさえある。
そういう僕は、いまだに親を恐れる子どもみたいになっていて、なんだか変な気もする。でも決してそこに「本当のこと」は交わされない。相手もそれがわかってて、そうかと聞いている気もする。
休みたい、サボりたい、めんどくさい、うっとうしい。そういうことっていっぱいあるはずなのに、みな飲み込んで「いらっしゃいませ」と笑う。「いい従業員」だらけのはずなのに、仕事がなんだか苦しいのはウソのせいかもしれない。
ただ「本当のこと」といっても、人はすぐにそれが言えるわけでもない。僕たちはウソばかりつきすぎて、なかなか本当にたどり着けないからだ。
ウソは当事者たちのコミュニケーション領域のずれの部分に生じる。そして人間が別々の身体をもってそれぞれの場を生きていかざるをえない以上、このコミュニケーション領域のずれは、どんなにがんばったとて埋めきれるものではない。その意味で人間はウソをまぬがれることが原理的にできない条件のもとに生きている。
ただ現実には、異なるコミュニケーション領域のあいだのずれが埋められないほど大きくなったり、あるいはずれの露呈を徹底して相手から突き詰められることは、そうそうあることではない。だからこそ人は、軽いウソはしょっちゅうついても、ラーシュやマキのウソのような深刻なウソに巻き込まれることは、幸い少なくて済んでいるのである。(同書 P.187)
誰かに対する「私」と別の誰かに対する「私」がズレるとき、そこにウソが生まれる。僕たちは無数の人と人間関係を築くので、そこにはウソとマコトが入り混じった不安定な空間が現れる。
そう思うと、某国の首相がウソばかりついているのは、その背後に誰かとの関係があって、その誰かと別の誰か(たとえば国民)との関係がひとつの物語では語りきれないのかもしれない。本書を読みながら「真面目な人ほど、ウソがつけなくて苦しいのかもしれない」と思ったけれど、答弁があんなにぐらついて、時にイライラしたり、不用意なことをしてしまったりするのは、あの人が案外「いい人」だからかもしれないな、と思った。