自分で自分をいじめているあの人を、バカヤロウと抱きしめて
写真とタイトルが出オチになっている感があるけれど、いま、というか、何年も前から「自分で自分をいじめている人」のことが気になっている。
他人と同じ行動がとれないから、お金がないから、生きていくのがヘタだから、夢を叶えられないから。
さまざまな理由をつけて、ぼくたちは自分で自分をいじめる。
他人と違って、自分へのいじめは内側で起きていることなので、ぱっと見、わからない。
でも、その人の言動や雰囲気から、その気配を感じ取れることがある。
どことなく、しんどそうな感じとして。
はんたいに、自分のことを「いいじゃん」と思えたりするのは、うれしい。
うぬ惚れ、なんて言われることもあるけれど、自分のことを認めたり、見直せたりすると誇らしい気持ちになる。
「いろいろと困ったところもあるけれど、基本的にいいやつだな」
そんなふうに自分のことを思えていると生きやすい。そして、そういう人のまわりには人が集まってきやすいように思う。
自分と自分との関係が、他者との関係にも反映されてくる。
悲しいことだけれど、大人がこどもをいじめたりするのは、その前に自分自身をいじめ抜いているからじゃないかと思う。
ぼくが㐧二音楽室でしている活動のねらいは、条件やらなんやらで縛りすぎて、身動きが取れなくなった自分からの解放だ。
縛りに縛って「どうせこんなもん」と卑下してきた自分が、もっとでかくて、すごくて、素晴らしい存在だと気づけたら、そしてお互いに称え合えたら、すこしは「自分いじめ」が減るかもしれないと思っているのだ。
(ややこしい説明をすると、ここで称え合う「自分」は、エゴが自分だと定義している人のことではない。もっと大きな、なんというか摩訶不思議な現象としての「自分」を指している。)
とはいえ、そんなことを言ってるぼくだって、囚われの身だ。
条件だらけの檻から抜け出せずに、イラついて自分をいじめてしまうことだってあるよ、そりゃ。
でも、だからこそ「自分いじめ」、いっしょにやめませんか。
愛せとか、むずかしいことは言わない。
せめて、いじめるのはもう、やめにしましょうよ。
同じように囚われているからこそ、同じように自分と仲良くしたいと願うからこそ、そう思う。
ザ・ブルーハーツの『TRAIN TRAIN』の中に、こんな歌詞がある。
世界中にさだめられた
どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は
どんなにすばらしいだろう
世界中に建てられてる
どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は
どんなに意味があるだろう
この詞のように、人を敬いながら生きる人が増えたら、どんなにかいいだろう。
ときどき、そんな夢想をする。
それって、やっぱ厳しいすかね?
厄介なのは、身をもって知っているつもり。
でも、どうしても諦めきれないんですよね。