その人を「足手まとい」にして、社会は進んでいけるのか。
うちの近くの横断歩道に「交通弱者専用ボタン」というものがある。
それを押すと、通常よりも早く信号が変わる、らしい。
僕はいつも「弱者」という言葉にすこしドキッとしながら、赤信号が青信号に変わるのを待っている。
社会福祉士の勉強をしているときにも「社会的弱者」という言葉が出てきた。差別用語かと思ったが、普通に使われていた。医療、介護、福祉のサービスを利用する人たちを指す言葉だ。
今日、昼寝から目覚めて、思いついたことがある。
それはこの「弱者」についてのことだった。
一言でいうと、こういうことだ。
「僕らの社会は『弱者』を足手まといとし、彼らに関わる手間を『自己責任』とすることで速度を緩めないようにしているけれど、それは本当に最速なのだろうか?」
健康で丈夫な体を持ち、頭脳明晰で、バリバリ仕事をして稼ぐ。
そういう「強い人」であることを、僕たちは意識的にせよ、無意識にせよ、心のどこかで望んでいる。
そして、病を得ることや不慮の事故に遭うこと、あるいは老いることや亡くなること、言い換えれば「弱くなること」から目を逸らして暮らす。
そうしているのは、僕だけじゃないはずだ。
けれど、社会福祉士として福祉の現場に入ると「社会的弱者」とされている人たちは、信じられないほどたくさんいる。子ども、お年寄り、精神や身体に疾患を抱えた人、あるいは今日、体調不良で休んでいる同僚だって一時的には「弱者」だ。
サラリーマンをしていたときには、視界に入らなかった人たち。
速度を上げてどこかを目指している人たちが、無視せざるを得ない人たち。
僕には、社会がそういう人たちを落ちこぼれさせて進んでいるように見える。
と、偉そうなことを書いてきたが、かく言う僕は、奥さんの機嫌や調子がよくないときに、イライラをぶつけられたり、小言を言われたりすることを、しばしば「足手まとい」と感じてきた。
機嫌や調子の悪い人は、やり場のないエネルギーを周囲にぶつけることがある。自分の調子がいいときにそんなふうにされると、強制的に減速させられている感じがした(本当はお互い様なのだけれど)。
それは運動会の二人三脚で相手と呼吸が合わず、思うように走れない時のよう。「一人で走った方が効率的だし速い」とそのたび僕は思ってきた。
でも今日、昼寝から覚めたとき「それは違う」と思った。
脈絡よりも先に「違う」という確信があった。
続いて、そのことを裏付ける例が思い浮かんだ。
たとえば、プロ野球。
資金力のある球団が他のチームのエースや四番打者といった「強い人たち」をお金で集めても、生え抜きを育ててきた球団に勝てなかったりする。
ケガ人が続出しながら勝ち続けるチームもあれば、戦力は十分なはずなのに沈むチームもある。
もっと身近なところに目を向ければ、先日の九州行での祖父の姿が思い浮かぶ。
祖父は認知機能が低下し、孫の僕のことを忘れていたが、そんな「弱くなった」祖父がいることで、かえって家全体がおだやかで明るくなっている感じがした。特に叔母は、祖父の介護をすることで目に見えていきいきとしていた。
「弱くなった人」が周りを「強くする」。そういうことってある。
実は、先に挙げた奥さんとの関係もそうだった。
機嫌が悪いとき、それを「足手まとい」と捉えたり「自分でなんとかしてよ」と避けたりするのではなく、話を聞いてみる。
すると、奥さん自身のことが分かるだけでなく、自らの人生までもが先に進むことが多かった。
そこにある「弱さ」は、彼女だけが「自己責任」として引き受けるようなものではなかったからだ。
弱っている人に関わることは「遠まわり」で、そうなってしまった存在が「足手まとい」とは、僕にはもう思えない。
むしろ、そういう人たちの「弱い光」とともに生きることで、たかだか一人ぶんのちっぽけな力が、百倍、千倍にもなっていくのではないか。
福祉の現場にいる人たちが、しばしば「利用者さんに元気をもらう」というけれど、そんな感じで。
自分だけに焦点を当てていると見えないけれど、カメラを引いてみてみれば「弱くなった人たち」は他の誰かを力づけている。
自分自身が「早道」だと思っていた単独行こそが、大いなる遠まわりだったのか。
急にそんな確信が訪れて、思わず奥さんに話しかけた。
「そう思うと、安心して弱くなれるね」と。
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