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心をなににたとえよう。
昨日、友人が主催した「影舞の種」という会に参加してきた。
そこで「聞くこと」の師匠、くにちゃんこと橋本久仁彦さんと再びご一緒できた。
個人的に印象深いのは、二度目の影舞を舞っていたときのこと。
指先と指先を触れ合って、その揺れに真摯についていく。
そこにくにちゃんの選んだ音楽が乗る。
影舞にあるのはそれだけなのだけれど、観ている側からはこの上なく美しいものに映る。舞っている側にはなにもわからない。
その日、ご一緒した方の指先にふれて舞いはじめて、しばらくすると、この歌が聞こえてきた。
夕闇迫る雲の上
いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう
(手嶌葵『テルーの唄』より)
「鷹」という言葉が、からだの奥深くまで入ってきた気がした。
こんなことは、はじめてだ。
歌はさらに入り込んでくる。
心をなににたとえよう
鷹のようなこの心
心をなににたとえよう
空を舞うような悲しさを
涙が出た。
その刹那「不覚」と思った。
泣いてはいけない。指先に集中せねばと。
不思議なことに、指先の動きはくるりと僕を反転させ、観客に背を向ける格好になった。それで、僕はぞんぶんに涙を味わうことができた。
人影絶えた野の道を
私とともに歩んでる
あなたもきっと寂しかろう
僕と相手の触れた指先は、鷹のように舞った。
涙がかわくまで、僕は観客に背中を向けたままでいさせてもらえた。
なんの計らいかは、わからない。
僕は影舞をすると大抵、立ち上がれずに終わる。
だから、こんなふうに自由に動けていることが驚きでもあった。
自由。
舞いながら、山合いを飛ぶ一羽の鷹のようだ、と思った。
寂しくはあるが、とても気持ちがよかった。いいものだった。
観客として泣くことは何度もあったけれど、舞っているときに泣くなんてはじめてだった。
くにちゃんがなぜ『テルーの唄』を選んだのかは、聞いていないから知らない。でも、このとき、この曲で舞えてよかった。
くにちゃんといると、いままで通り生きるのがいやになる。
そこに「可能性」を見てしまうからだ。
可能性は、言葉にならない。
うっすらと感じられる方向感覚のようなものが「こっちだ」と呼んでいるだけで。
心をなににたとえよう。
ひとり道行くこの心。
心をなににたとえよう。
ひとりぼっちのさみしさを。
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