迷い道くねくね。
「迷うって、いいね。」
と、くにちゃんこと橋本久仁彦さんは関西弁で言った。関西弁だから「いいね」は語尾がちょっと上がる。
昨日、名古屋市千種区、西念寺で開かれた『聞くことの愉しみ、聞くことの深み』<破>という場でのこと。僕は「まったくだ」と思って、その言葉を聞いていた。
この日は、用意していた文字起こしの読み解きがなかなかはじまらず、場自体に迷いが生まれたり、文字起こしの中でも「言おうか、言うまいか」と迷う場面が描写されていた。
渡辺真知子さんは、ヒット曲『迷い道』の中でこう歌う。
ひとつ曲がり角 ひとつまちがえて
迷い道くねくね
「まちがえ」を正そうとして迷いが深まったり、「斜に構えた」と言っている人がまっすぐ斬り込んでいたり。昨日の場は、正面がどこかもわからないまま、文字通りくねくねとさまよっていた。
でも、ひとりの人が15分語ったことを、四時間以上かけて辿っていくと、そのくねくねとした迷いが、その人の誠実さや繊細さを示す表現として伝わってくる。そのくねくねがあるからこそ、その人が好きになる。
そこでまちがえなければ、20年もこんな思いをすることがなかったのに、というような人の不器用さは、どういうわけか、他の人にとっては魅力的に映るのだ。人の不幸は蜜の味、ということではなくて、豊かさとして。
そして、その「くねくね」を共にたどりながら伴走してくれる人がいると、ひとりぼっちの迷い道は突然、愉快な冒険譚に変わったりする。
僕たちが学んでいる「聞く」とは、そのようなものだ。
迷っている途中で「こうしたらいいよ」とアドバイスしたり、やさしい言葉をかけたりして ”助けようとする” のを、そのときは控えて、ただ、その人が語る言葉についていく。くにちゃんは「照らし」と言っていたけれど、ただ言葉をたどることが相手の足元を照らすサーチライトになるらしい。
ひとつ曲がり角、ひとつ間違えたら、そのとおりに間違えていく。
すると人は、というか、口から発せられる言葉は、おのずと重力のかかる場所に向かっていく。そして、その場所でなければ語れないことを語る。
大抵、人はその場所に行くことを避ける。逆らう。つらいと思うからだ。
でも、もしかしたら、それを避けることの方がずっとしんどいことかもしれないな、と昨日は思った。
だって、重力はそちらに働いているのだから。
もしかしたら、すごく訳のわからないことを書いているのかもしれないけれど、これが現段階で僕の理解している「聞くこと」だ。
それは理解したり、了解したりするための営みではない。そうではなくて、その人のいる「未知」の最先端に共につき従うこと。
どういうわけか「聞き照らす人」がいることで、人の前にスペースが生まれる。
そして、聞けば聞くほど、一言に重みが増す。最初はなにげない一言だと思っていたものが、そのような人生を、そのように生きてきた、その人でなければ発せない一言に変わる。同じ言葉であっても重みが違ってくる。
そう思って聞いていると、人というのは、一言ごとにこちらへの印象を変えていく、おそるべき構造物だということがわかる。物、と書いたけれど、実際にはたえず運動しながら形を変えているので、一定のかたちはとっていないようにも思えるが。
そんなことをうねうね、くねくねと書いている僕も迷いまくっている。
どこの曲がり角を、いつ間違えたのかもおぼえていない。ただ、ずいぶんハチャメチャになってきたなあとは思うのだ。
でもいまは、その酔っ払いの千鳥足みたいな歩みを面白がってくれる人がそばにいる。いつも助けてくれるわけじゃないんだけど、その人がその人でいることを尊重してくれる人たちだ。
そういう人たちと場を創っていく。切り拓いていく。
そういうふうに出会えた人たちとの場は、豊かだ。
いまも遠くの雷鳴のように、昨日の<破>の余韻がフェイスブック上で轟いている。なんか本当にうれしいんだけど、それは誉められたからじゃなくて(誉められるべきはくにちゃんだし)、互いの心境を聞くことで「いるよ」と確認できるから。そして、そこから昨日の場を味わい直すことができるからだ。
「おうい」「おうい」
そんなふうに声をかけ合いながら、やがて音は止んで、僕たちは日常に戻っていく。
出た音は減衰して消えていくものだけれど、ずっとそんなふうに呼びかけあっていられる場が創れたらなあと思う。
現在過去未来、ひとつ曲がり角、ひとつまちがえながら、僕たちは生きている。まっすぐな振りをしながら、本当はくねくねしている。