ケンカも辞さない。
「嫌いだな」
と、僕は言った。
おととい、名古屋の西念寺で開かれた『くにちゃんと、ミニカンの会』で、録音機から再生された僕の声。
この日、くにちゃん(橋本久仁彦さん)に読み解いてもらったのは、僕が嫌いなことについて語った時の文字起こしだった。
僕は、人前でなにかを嫌だと言うことが、ほとんどない。
嫌だと思うようなところには、最初から近づかないからだ。
だからその語りは、自分でも珍しく感じた。
これを聞いた友人が「嫌いなことが話せるのは、とてもリラックスしてるからだね」と言ってくれた。
なるほど、たしかにそうだ。
このときの聞き手は、奥さん。だからこそ、安心して「嫌」と言えたのだ。
そこからふっと、あることを思い出した。
それは、児童館で同僚が言った「ケンカも辞さない」という一言。
そのとき同僚は、子どもの権利条約を読み解く研修の準備をしていた。
この研修には、職員全員が参加することになっていたのだけれど、僕は法学部出のくせに条文嫌いだったので「退屈したらどうしよう」と思っていた。
そのことを正直に伝えると、同僚は「大丈夫です。ケンカも辞さないです」と言ってくれた。「ケンカしてもいいくらい大事なことを研修にこめている」という意味で。
その言葉を聞いて、なんだかホッとした。
そして実際の研修は、同僚を含む主催者の人柄がにじみ出た、すばらしい時間だった。
僕は、そしてたぶん僕たちは、できれば、人と仲良くしたい。
でも、時には「仲良し」でいることを危険にさらしてでも言わなければならないことがある。
なにかについて嫌だと言ったり、相手と違う意見を主張したり。
当たり障りのないことを言っていれば「いいムード」で「仲良し」でいられるはずなのに、そうしない。
たとえケンカになったとしても。
そういう人がいてくれることは、僕にとって、すごくうれしいことだった。
仲良しだった同僚が、ますます近く感じた瞬間でもあった。
おととい、読み解きの中で、橋本久仁彦さんは「嫌い」や「否定」を強く語ったからこそ、それと同等かそれ以上の「好き」や「肯定」が現れたと言っていた。
振り子のように、猛烈な「好き」を言うために「最低!」と思えるほど嫌いなものが必要だったのだと。
たしかにそうだった。
僕は「嫌い」「嫌い」と言いながら、最後には「好き」の話をしていた。
そう思うと、自分の「嫌」を聞いてくれる人って本当に貴重だ。
そのすぐそばには、自分にとって、とても大事なものが眠っているのだから。