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日記 2024.5.3(金) その先へ向かう。

今日は昨日よりも少し気温が高いようだけれど朝はさむかった。ここのところ布団から出て一番に靴下を履くことになる。わたしは足先が冷えると動きがとたんに鈍るからだ。冬用スリッパを解体して(ムートンの部分はうさぎのぬいぐるみを作るために残してある)捨ててしまったことをわずかに後悔する。

昨日お母さんから電話があって、お寺の行事でお父さんをおいて一泊旅行に行きたいから早く帰ってきてくれないかと相談された。本当は11日に山梨の坂口さんの展示を観に行ってから帰ろうかと思っていたのだけれどそれはやめにして早めに実家に帰ることにした。基本的にはわたしはいつも暇だから頼まれごとはいつでも受けられる状態にある。
そしてこうすることにしたのも何か意味があるのだと思うのだ。本気で生きていくと決めたわたしは、坂口さんに会っていざという時自分を守る方法を聞いておきたい思っていた。でもその時は今ではない、もう少し自分で考えて試してみろと言われたのだと思った。
けれどなぜかわからないが、わたしはいつか坂口さんと話しをしている姿を鮮明に思い浮かべることができる。いつかは会うことになると感じている。勘違いも本気でやると本当にそう思えてくる。それだけで楽しい。

朝ごはんにバナナをかじりながら、お昼ご飯の準備をしておく。玄米を炊くのはなんだか今日は面倒くさいなぁと思いながら食糧庫をのぞくと焼き米を発見した。そうだった、この間お母さんが送ってくれた荷物に焼き米もあったのだ。わたしには焼き米さえ与えてくれればいい。どんな時でも何かくれるというのであれば焼き米が欲しい。ああ、今日もこうやって焼き米に助けられる。あの香ばしくもちもちとしたおいしい焼き米がストックされている安心感をしみじみと感じるのだった。今ならじいちゃんと一緒に焼き米美味しいねぇと言い合えるのにな。昔は焼き米にはしゃぐじいちゃんをただ見ているだけだった。じいちゃんがいなくなってもう16年が経ってしまった。

久しぶりに梅醤番茶を淹れてみた。生理前のまったりとした気分をやさしく包んであげたかった。梅醤番茶は抱えるだけで効果を発揮するとはわたしの持論である。1Lのナルゲンボトルに入れたお茶を抱き抱え、体の力を抜きながらしばらく台所でぼーっとする。じわりとあたたまった。

お昼ご飯を作って食べてから、家の近くのコンビ二へ行く。ドアを開けて外へ出るとなんと静かなんだろう。住宅街は拍子抜けするくらい穏やかな空気が漂っていた。陽当たりのよい空き地の雑草をこの春はずっと観察している。最初にラッパのような形の黄色い花がたくさん咲いて散り、そのあとたんぽぽや少しずつドクダミが現れてきた。今日みるとドクダミは勢力を拡大し、新たにレースフラワーみたいな花が咲いている。可愛すぎて思わず足を止めて触ってみる。わたしは植物に触れるのが大好きだ。やわらかな食感のそれは可憐でかわいい。

コンビニも静かでお昼時なのにいつもよりもさらに人が少なかった。自前の和紙のコピー用紙を使い印刷したい旨をスタッフの方に伝えてみる。快く使わせてくださった。場所によって、人によってはダメだと言われることもあるのだろうけれど、そうだとしてもまずはなんでも素直に相談してみるものだなと思う。だめならだめで仕方ないけれど希望をかなえてもらえたらうれしい、そんなふうに考えながら頼むと断られたって気にならない。というかそんな気持ちで頼んでみると意外と断られない気もする。

人付き合いが苦手なわたしがあえて飲食店を選んで働いたのは、毎日毎日いろんな人をみて知ってを繰り返しながら様々な人と対面する訓練をしたかったからだった。もしかするとそれは後付けだったかもしれないがそんなことを意識しながら働いていた。
長い年月を飲食店で過ごしわたしの中にはたくさんの人の表情と声、行動や特徴のデータが集まった。焦っている人、周りをまったく気にしない人、いつもイライラしている人、ぼーっとしている人、神経質そうな人、哀愁漂う人、機嫌の良い時よくない時とある人。さまざまな人が思い浮かぶ。わたしは一度見た人の顔や声、特徴をすぐに覚えてしまう癖があった。この人はコーヒーに砂糖をふたつ使うな、いつもおんなじメニューを頼む人だな、結構すぐに覚えてしまっていた。声を頼りにすることが多く、顔は忘れていても声でどんな人だったかを思い出すことが結構あった。電話で声を聞いてもあの方だなと分かることがあって、わたしにこんな特技があったのかと知った。

たくさんの人と対面しながらわたしは苦手だった人付き合いというものを克服したかに見えた。けれど克服できてきたのは臆病さだけだった。人に声をかけたりすることが苦手だったわたしは毎日ひたすら人に声をかけることでとりあえず聞いてみるということはできるようになったのだった。それだけでも自分の中ではかなりの成長だと思った。

和紙の紙にコピーしたのは弟夫婦のかわいい赤ちゃんの絵だった。原本は額装に出していて弟夫婦に贈ることにした。贈り物を喜ばない弟が珍しく喜んでくれているみたいで嬉しかった。原本を渡す代わりに手元にコピーしたものを残しておきたかった。和紙のざらざらの面でコピーするとパステルの質感が少し感じられるような仕上がりになり満足した。やや画質が荒いのが残念だがB4サイズに3枚コピーしてみたのでお父さんとお母さんにもあげようと思う。

気持ちの良い快晴。こんな時は公園でゆっくりしてみたい。コンビニで買ったホットコーヒーと本を片手に一番近所の公園へ向かった。グラウンドでは小学生の野球の試合があったりして公園はすごくたくさんの人で賑わっていた。日陰の机とベンチもすべて埋まっていた。仕方なく子どもの広場のベンチに座って本を読む。水遊びをする子どもの賑やかな声が心地よい。水鉄砲、水風船、わたしも水遊びが大好きだったことを思い出した。
14時を回り遊んでいる子どもたちの声がさらに大きくなってきた。眠くなってきたのかハイになっている様子がみて取れる。走り回りかたもなんだかすごい。こんなにめいいっぱい遊んでみたいと思った。わたしも眠たくなってきたので帰って昼寝することにする。

苦手な人付き合いを克服する鍵は実は無職の孤独の中にあったように思う。わたしはひとりになって毎日毎日自分と向き合っていくうちに、ほかの人のことなんていつまで経ってもまるでわからないのだという前提にようやく気づくことができた。家族であろうがそれは同じ。誰のこともすべては分かるはずがないのだった。
わたしは人ばかり見つめて自分を見つめることができていなかった。自分のことは後回しでいいと本気で考えていたのだ。身を削って人に尽くすことこそ自分のためになるのだ、と。
しかしそれこそがわたしの人付き合いが苦手ということの原因だったと分かった時にはちょっとショックだった。でもこのことに気づけたということは今回の無職の旅で本当に大きなことだったと思う。

わたしはいままだ無職でひとりでいる時間も長いけれど、時々人に会うと楽に構えていられるようになった。いや構えているではなく、構えなくなったのだ。リラックスして人と会うことができている。それはなぜか。まったく人のことが気にならなくなったから、である。自分に向き合う時間を長く過ごす中でこれまでとはまったく真逆を生きている。今はほとんど人に興味もないので誰とでもふつうに接することができる。いま興味があるのはただひとり、自分のことだけなのである。わたしは自分のことが大好きになってしまって自分に興味深々なのだ。ほかの人のことを考えるよりも先に自分のことを考えている。でも自己中心的というのともちょっと違う気がする。わがままでもない。なんというのだろう、ただ、本当に自分にものすごく興味がある状態なのだ。1年前までの自分が聞いたら本当に驚くだろうなと思う。わたしは自分のことがほんとうにきらいと感じていて、顔も声も短い指も身長も、生き方も性格も、みんな大嫌いだったはずなのに。

自分との関係を見直すことこそ人付き合いを克服する唯一の手段だったような気がする。自分のありのままの姿を知り素直に今いる自分を認められるようになれば、人付き合いは自然に楽しいものになる。そもそも人付き合いは克服する必要なんてなかったのかもしれないということに気づいてくる。自分と違う誰かと接することで、ますます自分が見えてきてもっと自分を見つめてみたくなる。そしてもっと自分を好きになっていくしかできなくなるような気がする。

自分を好きになったらそこで終わりではないとも感じている。わたしはまだ始まったばかりなのだと思う。試すこと、考えること、自分と向き合うことをこれからも続けていきながら、わたしの経験したことを持って助ける人になっていきたい。
人間は助け合うために生きている部分があるということをいまこそ考えてみたいと思う。
経験したことを見せることでわたしを助けてくれた人のように、わたしもなっていきたいのだ。


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