やってみたい、あれもこれも。私の中で心配と憧れが主役を取り合っている。いつか死ぬ時、やってよかったっで終わりたいな。人を羨んだり、妬んだりせず、けっこう悪くない人生だったでしょ?って。人に流されて普通の中で生きていきたくない。みんながこのほうが安心だと促すものにすがりつきたくない。そんなのつまらない。ずっとそう思ってきたでしょ?固まるグループは嫌だとか、意味のないゴシップの話題を広げることも馬鹿らしいとか、昔からそう思っていたでしょ?忘れちゃいけない。そういうところがあるのも
寂しい…寂しい…寂しくて、悲しい、つらい どうしたらいいの?ひとりでいることが耐えられない…大好きな人が自分をどんどん嫌いになっていっている気がする。私が気を使えなかったからかな…この考え方こそ、自分に問題があるんだろうけど。問題ってどうやって解決するの?…
情熱のこもった言葉は 怒りから生まれる 逆に言うと 怒りのないとき 幸せなとき それは静かに しかし代わりに 優しさを覚える 私はある意味で低迷期に ある意味で平穏期に はいったのであろう 一場面の一ヶ所から見た景色だけを 信じるのをやめたのであろう もしくは 最初に見ていた場所を 移動したのだろう 私は今脱皮の最中なのかもしれない 古い考え方を脱ぎ捨て 今の自分を見つめる それを大切にする方法を考える 本当にやりたかったことはなんだっ
即席麺に足りないのは愛だろうか? 食べても食べても満たされない理由。よしみの味。 インスタント生活に悪いところはない途いう人がいるけど、私は満たされなかった。 おいしいだけじゃ、少量だけじゃわからなかった。 でも倍の量を食べるわけにもいかない。 ふと思った。 母のみそ汁。それだけあれば十分なのにと。 始めての土地で、知らないだしのみで作られるみそ汁は、腑に落ちない味だった。 ルーレットで出て欲しい目のとなりで止まるような。 みそ汁だけど、これはみそ汁じゃない
わかってるよ。そう言いたくなることがある。また、優しさや心配のつもりが、逆に怒らせてしまうことがある。優しさってなんなんだろうか。 部活時代の友人が、よくものを忘れる人だった。持ち物に書いてあったはずが、どうしても忘れてしまうのだ。だから彼女が重要な持ち物を担当したとき、私はいろんな心配から彼女に連絡した。でも到着した彼女は怒っていた。 「それぐらいできるから。」 なんだか眉を潜めたくなる瞬間だった。 でも、これは優しさだったのだろうか?優しさも一部の要素だったかもしれない
憎しみを受け継がせたがる人がいる。 自分達が受けた屈辱を、子供に継承させ、取り返すのだと教える人がいる。でもいつの時代でも、気づいている人たちがいる。憎しみ続けるのではなく、自分達も変化し適応していき、受け入れ妥協することで幸せになることが最善であるということを。どこの国の歴史でも、それに気づき動いた人たちがいることで、国が発展していく。例えば日本の大政奉還。武士の時代が終わったのだと気づき、世界に目を向け、折り合いをつけていくために行動し日本を導いた人達がいる。 あなたは後
私の悩みに 気づいてくれますか? 私の味方を してくれますか? 私は間違っていませんよね? そう言えたら どんなに良いか 責められるほど 胸が苦しくて 窒息してしまいそうになるのに 作り笑いをして 大丈夫ですって言ってしまう自分が とても憎いのに なぜもう無理ですって言えないのかな 元気なのに 元気じゃないの 悩みを打ち明けようとする度 体が凍ってしまうの 身体中に力が入って 震えてしまうの あなたに伝えたいことがあるのに 近寄られたら もう何もできないの 大丈夫
何か羨ましくなって自分が小さく見えても、 激しい怒りが込み上げても、 ありのままの自分を見てあげること。受け入れてあげること。 本当に自分がしたいと思っていることに気付くヒントを無視しないであげること。 人々が言う成功と、それはことなるかもしれない。 けど、人の幸せの方法で、自分が幸せになる保証はない。 それを忘れて、自分を無視して走りさらないこと。 そうなんだ、急がなくても大丈夫だよ。 焦って生きてる人のフィールドで生きなくてもいいんだよ。 焦って生きることを促すような社会