『悪は存在しない』のラスト解釈と感想
※若干追記していますが、基本的にはTwitterとふせったーに書いたのと同じものです。
濱口竜介監督の最新作『悪は存在しない』を観ました。
まず感じたのは、撮影凄すぎ…。
生活の一場面やちょっとした会話やなんかがじっくりと長尺で映されていて、そこに美しさ、ひとときの違和感の面白さがありました。
ファスト映画にしたら5分とかで説明されてしまいそうだけど、じっくりと向き合う事で得られる感慨がありましたね。
ラストはオープンエンディングでしたが、観た人皆似たような解釈になるのか、そうでもないのか正直わからなかったです。私のラスト解釈を以下にまとめてみます。
(考察ってほどの内容ではないです…)
▼ラスト解釈について
中盤にあった芸能事務所組の車中の会話で、女性の方(黛)が、福祉職から芸能事務所へ転職した理由について語っていました。
特に明確な理由とかはないけれど、限界まで心が擦り切れちまった結果、普通の時なら思いもよらなかったような方向に心が動いたのかもしれない……みたいな話でした。
明確にわかる!ってわけではないけれど、そういうのがありうるってことは、なんかちょっとわかる気もしました。
はっきりとしたきっかけとか、絶対的な悪とかがなくても、人生限界に思えるところまで心が擦り切れちまうことってあるよな、と。
そして、そういう時に、普通ならしないような判断をしてしまうことも…。
ラストも似たような構図があったのではと思いました。
娘と手負いの鹿が向き合っているところで、巧は娘の死の可能性を予感したと思います(手負いの鹿は人を襲うので)。
部屋に妻らしき女性の写真があったのに妻の姿はないことから、妻は既に死んでいるようにも見えます。実は、巧も限界ギリギリまで心が擦り切れちまっていたのかもしれません。
(芸能事務所組から見て)田舎の人の中では話せばわかる人のように見えて、見た感じそういう風には思えなかったとしても。
娘の迎えの時間を忘れるのも、そういう心が擦り切れちまったことの表れの一つかもしれないですね。
巧はあそこで助けに行くこともできたかもしれないけれど、心が思ってもいなかった方に動く。
娘と一緒に自分も死のうと考える…。
芸能事務所の男(高橋)は邪魔だったのでリアネイキッドチョークで眠らせておいて、主人公は死んだ娘を抱えてあの森の中の湖に行ったのではないかと…。一緒に入水して死ぬために…。
都会と田舎で一見対比関係にあるように思えるけど、何もかもがそうってわけでもなく…。心が擦り切れちまうことって都会でも田舎でもあるよな…。やるせない感情になりました。
芸能事務所の男は、田舎のことを(都会とは違って)心を擦り切れさせずに生きていける場所(=聖域のようなもの)のように思っていた節がありますが、そんなわけはないですよね…。
もしも、自分が心が擦り切れちまった時期にこの映画を観たら、衝撃で立ち上がれなかったかもしれないです…。
以上が私の解釈でしたが、他の観た人も似たような解釈になるのか、そうでもないのかは正直わからなかったです。実際どうなんでしょうか…。
あ、そうそう、「悪は存在しない」といいますが、あのテキトーコンサル!あいつだけは悪だと思いました!
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