【人物史】プーチンが最も恐れた男 アレクセイ・ナワリヌイ
こんにちは、ニコライです。今回は急きょ【人物史】をお届けします。
2024年2月16日、北極圏の刑務所に収監されていたロシアの反体制活動家、アレクセイ・ナワリヌイが死亡しました。死因は明らかにされていませんが、2か月前にモスクワから現在の刑務所へ移送されたばかり、そして、ロシア大統領選挙直前というタイミングから、暗殺の可能性も否定できません。今回は、ロシアの反体制派の期待の星ともいわれた、ナワリヌイの生涯について見ていきたいと思います。
1.汚職を追求するブロガー
アレクセイ・ナワリヌイは、1976年、モスクワ生まれ。青年期にペレストロイカを経験したナワリヌイは、二つの大学で法律と財政学を学び、ビジネスの世界に飛び込みます。ナワリヌイは実業家としての経験を通し、大統領やその側近とコネを持ったほんの一握りの人たちがとてつもなく裕福になっている、というロシアにおける「政治とカネ」の関係を理解しました。こうした汚職が横行する中では、ビジネス界でいくら苦闘したところで成功することはできない、と考え、24歳の時にリベラル政党の「ヤブロコ」へと入党して政治家としてデビューを果たし、反体制活動を開始します。
ナワリヌイは汚職を追求するために、なけなしの貯金で国営企業や政府と関係の深い企業の株を購入し、「少数株主」になるというユニークな戦術をとりました。これにより企業活動に関する情報へのアクセス権を獲得し、汚職に関する情報を引き出し、それを使って企業を告発していったのです。ガスプロム、ロスネフチ、ロステフノロギイ、ロシア貯蓄銀行などの大企業が、次から次へとナワリヌイによって告発されていきました。ロシアの大企業の経営トップは、みな最高権力者であるウラジーミル・プーチンと関係の深い人たちばかりですから、その批判の矛先はプーチン自身にも向けられるようになります。
さらに、ナワリヌイはこうした「株主活動」をブログに投稿し、ネット上で情報を拡散するという手段に出ました。ナワリヌイのブログには多くの人が注目し、多い時には1つの記事に9000件近いコメントがつき、閲覧者数は1日5万人以上にも登りました。特に2011年の下院選挙の際は、与党・統一ロシアを「詐欺師と泥棒の党」と名付けたことが大ヒットし、この言葉はロシア版流行語大賞にも選ばれました。
容赦なく汚職を追求し、さらにブログという新しいツールを使ったナワリヌイは、様々な人々から注目され、たちまち「時代のヒーロー」へとなっていきました。
2.2013年モスクワ市長選挙
2012年5月、大統領へと復帰したプーチンは、盛り上がりを見せる反体制運動に対し、大規模な弾圧に乗り出します。当然、ナワリヌイもその対象となり、同年7月30日、キーロフ州政府の財産を横領した疑いで逮捕されてしまいます。この事件は一度証拠不十分で捜査打ち切りになったはずでしたが、プーチンの復帰と共に蒸し返されたのです。翌2013年7月、州裁判所はナワリヌイに有罪判決を下し、5年の禁固刑を言い渡します。
ナワリヌイはただちに控訴するとともに、同年9月に行われることになっていたモスクワ市長選での選挙活動を続けることを決定します。ナワリヌイは既存の政治家とは異なるタイプの人間であるとして、リベラル派、ナショナリスト、ソ連崩壊後に育った20代の若者世代など、様々な層から支持を獲得していきました。
9月8日の開票では、現職市長であるセルゲイ・ソビャーニンが勝利しました。しかし、60パーセントと予想されたソビャーニンの得票率は過半数をわずかに超えた51パーセントにとどまり、一方のナワリヌイは、野党候補者の中では断トツの27パーセントの票を獲得し、第二位に躍進しました。まさに「試合に負けたが勝負に勝った」といったところでしょう。
3.大統領選挙と暗殺未遂事件
2016年12月、ナワリヌイはロシア大統領選挙への立候補を表明しました。ついにプーチン大統領との一騎打ちに出ようとしたのです。しかし、先ほどの裁判の件が尾を引き、2017年、執行猶予付き5年の判決を下されたため、10年間は選挙に出ることができなくなってしまいました。これに対し、ナワリヌイは「プーチンが私との戦いをしり込みした」と言い放ち、有権者へ選挙ボイコットを呼びかけました。
その後もナワリヌイは政治家や役人の汚職調査、地方で野党を支持する選挙運動を積極的に行いました。しかし、2020年8月20日、シベリアのトムスクからモスクワへ戻る飛行機の中で、ナワリヌイは当然うめき声をあげて苦しみだし、緊急着陸したオムスクの病院へ救急搬送されてしまいます。この事件の際は、病院には警官が押し寄せ、妻ユリヤやともに活動していたメンバーは面会を謝絶され、病院側の診断結果も突然変わるなど、奇妙な点が目立ちました。
ユリヤたちの掛け合いにより、重体のナワリヌイはドイツの病院へと移送されることが認められます。ベルリン到着の2日後、ドイツの医師団は、ナワリヌイが中枢神経を犯す猛毒であるノビチョクと同系の神経剤を投与された可能性が高いことを発表、これにより、事件へのロシアの国家的関与の疑いが強まりました。ナワリヌイ暗殺未遂事件を受け、ロシアに対する国際的な批判の声が高まりましたが、ロシア政府は関与を否定し、国内メディアも外国からの非難に対し、こぞって異議申し立てをするありさまでした。
4.帰国、逮捕、そして突然の死
その後、意識を取り戻したナワリヌイは、ロシアへと帰国するつもりだと発表しました。2021年1月17日、大勢のマスコミが詰めかける中、ナワリヌイはユリヤとともにベルリン・ブランデンブルク空港で飛行機に搭乗し、モスクワへと旅立ちました。
帰国したナワリヌイは、再び裁判を受けることになります。執行猶予中に義務付けられた月に二度の刑務官との面接に、ベルリンで入院している間、出頭しなかったというのが出廷の理由でした。ナワリヌイは、暗殺に失敗したうえ、その企てがバレて頭に血が上っているとプーチンを非難しました。さらに、彼のチームは抗議デモを計画しましたが、警察や司法当局からの圧力により休止に追い込まれます。2月2日、ナワリヌイは執行猶予を取り消され、禁固刑を宣告されました。
2月25日、ナワリヌイはモスクワから100キロ離れた、ウラジーミル地方ポクロフにある「矯正労働収容所」に収監されます。ナワリヌイはSNSを通じて刑務所から情報を発信し続け、理不尽な理由で罰を受け、読む新聞が検閲され、就寝中に1時間おきに起こされるといった扱いを受けていることを訴えました。そうした中でもナワリヌイの政治的信念は揺るがず、2022年にウクライナ戦争が勃発すると反戦デモを、今年予定されている大統領選挙に対しては、プーチン以外の候補への投票を呼びかけました。
2023年12月上旬からナワリヌイは「行方不明」となり、それまで連絡をとっていたチームのメンバーとも音信不通になってしまいました。その後、同月下旬には西シベリアに位置する、アクセスが困難な北極圏の刑務所へと移送されたことが判明しました。この措置は大統領選挙を前にした活動封じではないかとみられていました。そして、2024年2月16日、ロシア当局よりナワリヌイが死亡したという発表されました。散歩の後に体調を崩し、そのまま亡くなったとのことです。こうして、国内外で最も注目されていた反体制活動家の生涯に幕が下りたのでした。
5.まとめ
「反体制の期待の星」、「プーチンが最も恐れた男」と称されたナワリヌイは、左右問わず、幅広い層から支持を得た人物でした。もともと、ロシアの反体制派は分裂が激しく、統一した勢力を築くことができないというのが最大の弱点になっていました。そうした中、ナワリヌイは例外的に支持を獲得することができた人物でした。彼の死により、ロシアの反体制活動はますます窮地に立たされることでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。