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【人物史】スラヴ人たちの使徒・キュリロスとメトディオス

1.はじめに

キュリロスメトディオスの兄弟は、モラヴィア・パンノニアのスラヴ人たちに布教活動を行った宣教師であり、その活動から「スラヴ人たちの使徒」とも呼ばれ、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会の双方から聖人として崇敬されています。今回は、彼らの布教活動と、その後のスラヴ諸国に与えた影響を見ていきたいと思います。

2.キュリロスとメトディオスの経歴

兄メトディオス(俗名ミカエル)は815年、弟キュリロス(俗名コンスタンティノス)は826年に、ビザンツ帝国第2の都市テッサロニキの名門ギリシャ人の家系に生まれました。メトディオスは、テッサロニキ軍管区のスラヴ人居住区の行政長官を勤めましたが、855年に退官してオリュンポス修道院の修道士となりました。一方、キュリロスは、帝都コンスタンティノープルのマグナウラ宮殿の大学で学び、若くして哲学教授となり、「フィロソーフ(哲人)」と呼ばれる秀才でした。彼も856年に教授職を離れ、兄のいる修道院に退きました。兄弟が公職を退いたのは政治的な理由であったと言われていますが、その後も帝国使節団のメンバーとしてハザール国へと派遣されるなど、完全に埋もれてしまったわけではありませんでした。

キュリロス(右・827-869年)とメトディオス(左・826ー885年)

3.モラヴィアからの要請

大モラヴィア王国は、830年に中欧に建国されたスラヴ人国家であり、現在のチェコ、スロヴァキア、ハンガリー、オーストリア、ポーランドに及ぶ広大な地域を領有していました。隣接する東フランク王国の主導でキリスト教を広められており、宗教的にはフランク人の支配下にありました。

大モラヴィア王国の領域(緑色の範囲)
黒線は現在の国境線

846年、モラヴィア候となったロスティスラフは、フランク人による宗教支配から脱するために、独自の司教を立てて、教会の独立を図ろうとしました。ロスティスラフは、まずはローマ教皇へと司教派遣を嘆願しましたが、断られました。そこで、援助を請う相手を西方教会から東方教会へと切り替え、862年にビザンツ皇帝ミカエル3世に主教派遣を要請しました。

モラヴィア候ロスティスラフ(在位846-870)

ビザンツ帝国は、ローマ教会と違い、モラヴィアの要請を受け入れました。そこには、反東フランク的なモラヴィアに接近することで、東フランクとの結びつきを強める隣国ブルガリアに対抗しようという、政治的な思惑がありました。また、ブルガリア宣教をめぐり、ローマとの対立を深めていたコンスタンティノープル教会は、モラヴィアからの要請を西方教会の宣教地を切り崩す好機ととらえました。

4.グラゴル文字の発明

ロスティスラフは、ビザンツ帝国への要請の中で、「我々自身の言葉でキリスト教の教えを説く主教」、すなわち、民衆語であるスラヴ語での布教を求めました。当時のキリスト教の世界では、「神は三つの言語によってのみ崇拝されるべき」という考え方が主流であり、聖書の翻訳はもちろん、典礼に用いる言葉も、ヘブライ語ラテン語ギリシャ語の三言語以外は認められていませんでした。しかし、ビザンツ帝国はロスティスラフの要請を受け入れ、スラヴ人の言葉でキリスト教を布教できる人物の派遣を決定しました。

そして、白羽の矢が立ったのがキュリロスとメトディオスでした。この二人が選ばれた理由としては、二人がテッサロニキ出身であったことが大きく関係しています。テッサロニキが位置していたマケドニア地方には、7世紀以降大勢のスラヴ人が流入し、定住していました。このため、二人は幼少の時からスラヴ語に慣れ親しんでおり、皇帝ミカエル3世も、「テッサロニキの人は皆、正しいスラヴ語を話す」と評していました。

モラヴィアに派遣されることとなったキュリロスとメトディオスは、布教のための準備としてスラヴ語の文字の作成に取り掛かりました。というのも、当時のスラヴ人は文字を持っておらず、スラヴ語による布教のためには、まずスラヴ語を表すための文字が必要だったからでした。こうして、兄弟はギリシャ文字を基に、スラヴ語の音を表すための工夫しながら作成されたのが、グラゴル文字です。二人はさらに、このグラゴル文字を使用して、アプラコス(典礼用の福音書抜粋集)などの聖典をスラヴ語に翻訳し、863年の春、モラヴィアに向かって出発しました。

グラゴル文字のアルファベット

5.モラヴィアでの宣教活動とその瓦解

863年の秋、キュリロスとメトディオスはモラヴィアに到着し、宣教活動を開始しました。40か月にわたる滞在期間の間、兄弟は聖書や典礼書、教会法規書などをスラヴ語に翻訳し、スラヴ語による典礼を行い、さらにスラヴ人の弟子の養成を行いました。866年、一人でも多くのスラヴ人の弟子を聖職者として叙階させるため、二人はいったんコンスタンティノープルへと向かうことにしました。しかし、そこへ教皇ニコラウス1世からローマへの招待の報せが届き、行き先をローマへと変更します。

867年12月、ローマへと到着した兄弟を、前月に亡くなったニコラウス1世の代わりに、新教皇のハドリアヌス2世が出迎え、大いに歓迎しました。ハドリアヌス2世は二人の希望を全て叶え、スラヴ語による典礼を許可し、メトディオスとスラヴ人の弟子3人を司祭に叙階しました。その矢先、キュリロスは病に倒れ、869年にローマで亡くなります。残ったメトディオスは、同年末に、教皇よりモラヴィアとパンノニアを管轄するシルミウム大司教に叙聖され、引き続き同地での布教活動を続けようとします。

しかし、その頃、モラヴィアではロスティスラフが失脚し、甥のスヴァトプルクが後継者となったことで、政治情勢が東フランク寄りへと変化していました。フランク人たちは、スラヴ語での典礼を快く思っておらず、さらに、ローマからのシルミウムへの大司教派遣を、モラヴィアでの自分たちの権益を攻撃するものと見なしていました。こうして、シルミウムに到着したメトディオスは、フランク人聖職者たちに逮捕されてしまい、3年半にわたり、ドイツ南西部奥地にある修道院に幽閉されてしまいます。

873年春、ローマ教皇ヨハネス8世の抗議により、メトディオスは解放され、モラヴィアでのスラヴ語による布教活動を再開しますが、フランク人聖職者による圧力は強くなっていきました。885年、メトディオスが亡くなると、ニトラの属司教ヴィーヒングがメトディオスを異端視する運動を行い、ローマ教皇ステファヌス5世もこれを認めました。スラヴ語による典礼は禁止され、メトディオスの弟子たちは投獄されるか、国外追放となるか、あるいは奴隷商人に売られてしまいました。

6.キュリロスとメトディオスの遺産

モラヴィアを追われた弟子たちは、逃亡の末、ブルガリアに到着します。ブルガリアは、ビザンツ帝国の軍事介入により、864年にキリスト教を受容し、869年から870年に開かれた第8回全地公会議において、コンスタンティノープル教会の管轄下に置かれていました。

弟子たちは首都プリスカでボリス王に歓迎され、彼の庇護のもとにスラヴ語による布教活動を行います。メトディオスの高弟であったクリメントらは、スラヴ語による翻訳・著作活動を盛んに展開し、キリスト教関連の書物だけでなく、『シメオンの文集』といった自然、社会、文化など様々なテーマを扱った百科全書的な文集も編纂しました。

オフリドのクリメント(840-916)

さらに、スラヴ語を表すための新たな文字が考案されます。キュリロスが発明したグラゴル文字は、スラヴ語を表記するには優れているものの、字形が個性的で覚えて使いこなすのが困難でした。そのため、グラゴル文字を下敷きにしつつ、より扱いやすいギリシャ文字を当てはめて改良した、キリル文字(キュリロスのスラヴ語読みにちなむ)が誕生しました。キリル文字はその後グラゴル文字にとって代わり、スラヴ人の文字として普及していきます。

キリル文字(現代ロシア語)

7.まとめ

キュリロスとメトディオスの活動の意義は、下記の2点にあると言えます。

① スラヴ語の文字の発明
それまで文字を持たなかったスラヴ人のために、スラヴ語を表すグラゴル文字を考案しました。グラゴル文字は後に考案されたキリル文字にとってかわられ、現代のスラヴ諸語では使用されていることはありませんが、キリル文字の誕生も、グラゴル文字が先駆けて存在したからできたことであり、その存在意義は非常に大きいと言えます。

② 聖典のスラヴ語翻訳とスラヴ語典礼
キュリロスとメトディオスは、ロスティスラフ候の要請により、聖典のスラヴ語翻訳とスラヴ語での典礼を行いました。これは、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の三言語を神聖視する当時のキリスト教世界の主流に反していましたが、コンスタンティノープルとローマの両教会から容認されました。こうしたスラヴ語の著作とスラヴ語典礼は、ブルガリアを経て、キエフ・ルーシへと伝わり、正教会圏のスラヴ諸国家全体へと広まっていきました。

◆◆◆◆◆◆

このように、キュリロスとメトディオスの活動は、活動地であったモラヴィアにとどまらず、ブルガリア、セルビア、そして今日のロシアなどのスラヴ諸国へと広がっていきました。また、グラゴル文字の発明とその翻訳活動は、単に教会史的な意義だけでなく、スラヴ人の歴史を変えた世界史的意義のある出来事であったと言えます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考

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