【人物史】雷帝と恐れられた専制君主・イヴァン4世
1.はじめに
イヴァン4世は、その厳格な統治から雷帝(ロシア語:グロズヌィ。「恐ろしい」という意味で、雷とつくのは日本特有の意訳)と呼ばれたモスクワ大公国の君主です。ピョートル大帝などと並ぶロシア史上の偉人のひとりであり、日本でもスマートフォン向けゲームでモデルとしたキャラクターが登場するなど、有名な人物ではないかと思います。今回は、イヴァン4世とその治世がどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。
2.親政の開始~貴族の排除と国内改革~
1533年、ヴァシリー3世が亡くなり、当時3歳だった彼の長男が跡を継ぎました。この幼児がイヴァン4世です。幼いイヴァンの代わりに母エレーナ・グリンスカヤが実権を握りましたが、1358年に彼女が亡くなると、名門のシュイスキー家とベリスキー家を中心に、貴族諸党派が互いに権力を奪い合う、「貴族支配」の時代が訪れます。
1547年、17歳になったイヴァン4世は、ロシア史上初めて公的に「ツァーリ」として戴冠します。貴族たちによって権力が私物化され、混乱と無規律が蔓延する中で育ったイヴァンは、神以外に何物にも依存しない独立した君主となろうと、名門貴族たちの権力を排除しようと試みます。
1549年、イヴァンは、貴族たちの合議機関である「貴族会議」からの制約を受けないように、「選抜会議」という政府機関を新たに設置し、改革を進めました。まず宮廷と行政を切り離すために、使節庁、嘆願庁、封地庁、盗賊取締庁、補任庁、銃兵隊庁などのプリカースと呼ばれる中央官庁が設置されました。
地方行政においては、腐敗の温床となっていた貴族たちによる代官・郷司が廃止され、代わりに、地方の富裕な農民や市民、士族から選出された長老が地方行政を担う自治制へと移行しました。また、全国議会(ゼムスキー・ソボール)を設立し、名門貴族だけでなく、士族や商工業者など地方有力者の声をくみ上げようとしました。
3.諸ハン国併合とリヴォニア戦争
こうした国内改革と並行して、イヴァンは積極的な対外進出政策に乗り出しました。
まず、イヴァンは、ロシアにとって脅威であった、モンゴル系の諸ハン国を取り除こうとしました。イヴァンが「クリミアとカザンゆえに、全土の半分が荒地となった」と述べているように、キプチャク・ハン国から分裂したクリミア・ハン国、カザン・ハン国などの騎馬部隊は、市場に売り飛ばすための奴隷を求めて、ロシア領内を荒らしまわっていました。
イヴァンは、これらの諸ハン国に征服戦争をしかけました。1552年には、3度にわたる攻撃によってカザン・ハン国を、その4年後には、ヴォルガ川下流のアストラハン・ハン国をそれぞれ征服し、併合しました。さらに、カスピ海北域からウラル川流域に勢力を張るノガイ・ハン国をも屈服させ、イェルマーク率いるコサック部隊がシビル・ハン国に攻撃を仕掛け、これを併合しました。
こうして東方に拡大していったロシアは、同時に、西方に至る海の出口を獲得するために、バルト海に面するリヴォニアを抑えようとしました。リヴォニアは、現在のラトヴィアとエストニアの一部を指す地域で、当時はリヴォニア騎士修道会の支配下にありました。1558年1月にロシア軍はリヴォニアに侵入し、半年で東半分を征服しました。
ロシアの勝利は疑いのないもののように思われましたが、翌年になると、ロシアの進出を快く思わないポーランド・リトアニア、スウェーデン、デンマークが介入しまてきました。国際化した戦争は長期化し、ロシアは激しく消耗していきます。この戦争の講和が結ばれたのは、四半世紀後の1582年でしたが、結局、ロシアは占領地をすべて返却することとなり、何ひとつ得たものはなく、損害だけが残りました。
4.オプリーチニナ
リヴォニア戦争が泥沼化する中で、イヴァンは、側近や貴族たちが自分の政策を妨害していると考えるようになりました。選抜会議の中心人物は退けられ、有力貴族や軍司令官の逮捕、処刑が相次ぎ、これを受け、敵国リトアニアへ亡命する者が頻発しました。
1564年、イヴァンは突如クレムリンを去り、モスクワから100キロも離れたアレクサンドロフスカヤ村へと移りました。そこから送られてきた書簡で、イヴァンは貴族や聖職者を裏切り者と非難し、退位の意向を表明しました。モスクワの市民たちの圧力により、イヴァンに復位を請うための代表団が派遣され、イヴァンはツァーリの絶対的権利を認めることを条件に、この嘆願を認めました。
こうしてモスクワに戻ったイヴァンは、オプリーチニナ政策を実施しました。これは、ロシア全土を「国土(ゼームシチナ)」と「皇室特別領(オプリーチニナ)」に分け、ツァーリの私領であるオプリーチニナを、その絶対的支配権が及ぶ地域に設定するものでした。オプリーチニナには、士族から選抜された「オプリーチニキ(親衛隊員)」が投入され、「ツァーリの敵」と見なされた人物は、貴族、士族、平民を問わず、容赦なく弾圧・処刑されました。
オプリーチニナ政策は、まさに暴力的なテロルでした。1567年、ゼームシチナの指導的な貴族・諸公、150人におよぶ士族・役人、その2倍の家臣や奴隷が処刑されました。翌年には、オプリーチニナを批判したモスクワ府主教フィリップが逮捕、殺害されました。最大の弾圧は1570年のノヴゴロドへのものであり、ポーランドと結び裏切りを画策したという理由で、ノヴゴロドは6週間にわたり破壊、殺戮、略奪にさらされ、数万人の市民が犠牲となりました。
1572年、オプリーチニナは廃止されました。1571年のクリミア・タタール軍によるモスクワ攻撃を、オプリーチニキ軍が防ぐことができなかったためでした。
長期化した戦争、オプリーチニナ政策、そして疫病の蔓延が重なり、ロシアは経済危機に陥りました。暴力と圧政を恐れた農民の逃亡が相次いだため、廃村が常態化し、耕地を耕すものがいなくなりました。また、労働力を失った領主層、とりわけ軍務を担う士族たちの多くが、勤務不能の状態に陥りました。
5.雷帝とモンゴル帝国の関係
最後に、やや話は変わりますが、イヴァン4世とモンゴル帝国の関係について紹介したいと思います。
13世紀半ばにモンゴルの支配下に置かれたルーシ諸公、その中でも特にモスクワ公は、キプチャク・ハン国と密接な関係を築くことで、自身の支配権を正当化しようと試みました。これは、単にサライに赴いて臣従を誓うというだけでなく、ハンの一族との政略結婚を行うこともありました。このため、ロマノフ朝初期でさえ、ロシアの宮廷にはモンゴル系の貴族が多くいたと言われています。
話をイヴァン4世に戻します。彼もモンゴルとは深い関係のある人物でした。イヴァンの母エレーナは、世継ぎに恵まれないヴァシリー3世が先妻と離縁して結婚した女性でしたが、実は彼女は、キプチャク・ハン国のクリミア太守ママイの直系の子孫でした。また、イヴァン4世が娶った2人目の妻マリア・テムリュコヴナは、キプチャク・ハン国の王族の血統に連なる人物でした。つまり、イヴァン4世は、母方ではチンギス・ハンの血統を引き、モンゴルの王族を娶った「婿」だったのです。
もうひとつ、イヴァンとモンゴルの関係性をうかがわせるエピソードがあります。1575年、イヴァン4世は突如として退位し、大公にシメオン・ベクブラトヴィチという人物を任じました。しかし、その1年後には再び復位し、シメオンはトヴェーリへと追い払われます。
イヴァンが大公位を譲ったシメオン・ベクブラトヴィチについてですが、彼は本名をサイン・ブラドというモンゴル人で、カザン・ハン国の皇子、すなわち、チンギス・ハンの直系の子孫でした。つまり、神聖なチンギス・ハンの血を引き、ハンを称する権利を持つシメオンをツァーリ(ロシア人はビザンツ皇帝とともに、ハンのこともツァーリと呼んでいた)にすることで、その位をモンゴル帝国の中で合法的なものにしようと試みた、という見方ができるのです。
このように、イヴァン4世から見えてくるものは、モスクワ大公国がモンゴル帝国が非常に密接な関係を持っていたという事実でした。
6.おわりに
イヴァン4世の治世下では、東方のハン国が次々と併合され、ロシアの国土は急速に拡大しました。特にシビル・ハン国を併合し、都市トボリスクを建造したことは、後のロシアのシベリア進出の第一歩となりました。また、諸ハン国を併合したことで、ロシアはモンゴル人を始めとする多民族を抱える国となり、帝国への道を歩みだしました。
しかし、彼によって始められたリヴォニア戦争と、オプリーチニナ政策によって、ロシアは激しく消耗し、国土は疲弊していました。貴族を排除し、ツァーリのもとに中央集権化を目指したイヴァンの政策は、かえってロシアの国家を疲弊させたのでした。
1584年、イヴァン4世はこの世を去りました。その3年前に、雷帝ははずみとはいえ、自身の手で有能な長男イヴァンを殺害しており、残された後継者は知力の劣るフョードルだけでした。雷帝の残した負の遺産はあまりにも大きく、やがてロシアは「動乱」の時代を迎えることになります
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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