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[読書記録] 日本語は国際語になるか

この本の中で、オーストラリア国立大学名誉教授であるアントニオ・アルフォンソと言う方が『西洋人への日本語教育は、日本人でなくて西洋人の手で』と書いていますが、私はこれはそのまま日本人への英語教育にもあてはまると思っています。もちろん、耳を慣らす事だけを考えたら日本人教師よりも英語ネイティブの教師に教わった方が有利ですし、文化や慣習を習うのも言葉を習う上で大事な点だと思いますが、やはり日本人の欠点を一番よく分かっている日本人の教師に習うのが一番効率が良いはずです。実際、こっちの学校で英語を習ってそれを強く感じました。

翻訳にもあてはまりますが、言語の教育を行うには、そのソースとターゲットの言語を知り尽くしている必要があると思います。ただ、バイリンガルでない人が両方を完璧に習得するには莫大な時間とお金がかかるので、たとえば日本語と日本文化と社会に精通している日本語ネイティブと、英語の世界に精通している英語ネイティブの人ががっちりとタッグを組んで欠点を補っていくのが一番効果的なのではないでしょうか。

ちょっと話が変わりますが、以前書いた『生成言語学入門』に次のようなことが書いてありました。

われわれの言語能力はちょうど筋肉と同じで、使われない部分の活動は一定量の訓練を施さないと活性化されない、という考えられる。

『生成言語学入門』より抜粋

私は、英語が得意だから翻訳者になりたいと思ったのではなくて、活字が好きで毎日活字に囲まれた生活をしたらいいなぁと思い、文章に関わる色々な職業の中で努力したらなれそうな職業ということで、翻訳の仕事を選びました。でも最初に英語を習った先生はあまりいい先生とは言えなかったし塾などにも行ったことなかったので、英語の授業は苦手を通り越して、大嫌いでした。

そんな中で、どうしたら翻訳者になれるのかと考えた結果、日本語文章能力と専門知識を他の人よりもつければ対抗できるのではないかという結論に達し、それにあった経験をしてきましたが、その判断は間違ってなかったと思います。そして、ずっと弱点だった英語の上達のためにこの国にきてしばらくすると、今度は日本語の筋肉の衰えを感じはじめました。というわけで、英語の向上を第一目標にしていたときは日本にいる人達と連絡を取る以外は、日本語をできるだけ使わないようにしていましたが、今は両方の筋肉を使うようにしています。日本語を教えようと思ったのもその一環なのです。

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